AEDPの創始者ダイアナ・フォーシャと (2010年イタリア・フィレンツェにて)
EFT(感情焦点化療法)の創始者レスリー・グリーンバーグ先生と
2025年
7月
05日
土
真摯な本である。内容も構成も書きぶりも。
そして、なによりも行間から、著者自身を含めた本書に登場する在宅医たちの日々の臨床姿勢の真摯さがあふれ出てくるようである。
そして、通読して本書のタイトルでもある「関わりつづける」という言葉が、評者の私(福島)の専門である臨床心理学で言う「そこに居つづける」という言葉に限りなく近く、そしてより正確に響きつづけている気がした。
さらに、「訪問する」ことの大変さと尊さと。
私自身、若い頃に何例か長期的な訪問カウンセリングを担当したり、修士論文やその後の研究でも大学院の隣の研究室の仲間たちと宗教学のフィールドワークをしていた関係で、「訪問」することの心身への負担を十分に思い知っており、それを専門として数十年も続ける在宅医の真摯さには「かなわない」と、日頃思っているからでもある。
本書は著者自身も在宅医であるが、自身の実践には直接には全く言及せずに、26名の現役在宅医にインタビューした結果とその考察を基本にしている。
「あとがき」によれば、著者は大学時代に所属していたヨット部の大会で海難事故に遭い、数時間にわたって身一つで漂流し、たまたま運良く助かった経験もあって「自分ごととして死を意識」するようになったとともに「死に接近しすぎた経験は自分と世界の距離を感じることにもつながった」とのことである。
この経験による世界の感じ方二つが、おそらく本書にも滲みわたっている真摯さと客観性とを生んでいると思うのは、深読みしすぎであろうか?
その後筆者は地域医療に力を入れる病院で研修医生活を送り、さらに西伊豆の小さな漁村での診療、そして後期研修では緩和ケアや沖縄の離島での診療支援などを経て、並行して上智大学の実践宗教学研究科博士課程に進学し修了して、文学博士となっている。
本書はその博士論文を大幅に加筆・修正したものらしい。
その後、著者は現在は都内の在宅診療のクリニックの院長を務める傍ら、上智大学グリーフケア研究所の研究員、東京慈恵医科大学非常勤講師なども務めておられる。
本書の1~3章においては、「医師とは何か」から始まり、医療の歴史と「なぜ在宅医の死生観」に注目したのかがていねいに書かれている。それらは単なる医療の歴史ではなく、「いのち」や「死生観」、そして「ケアする専門家」というキーワードを中心にして、広く「前近代」から「近代社会」が成立するとともに「病院の世紀」が始まり、救急期医療としての古典的在宅医療は衰退していったとする。
そしてさらに、著者の豊富な社会学的な学識を生かして、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュなどの後期近代論の中でも、そこにポストモダンとレイトモダンという二つの層によって「死」のあり様が変化して行ったとするウォルターの議論を使いながら1970年代以降の日本の死と社会や医療のかかわりについて考察している。
上記のような「死」の変化は、端的に言えば、「死の私化」や「死の個人化」とも言われる現象であり、個人レベルで死にゆくプロセスを自己決定し、自分らしい死に方をとることが望ましいと考えられるようになるプロセスであるということである。
翻って、評者(福島)の専門である臨床心理学を顧みた場合、古代の呪術や近世までの宗教から心理療法の分離独立、ジャネ・P、シャルコーやフロイト、ユングによる深層心理学的心理療法の発見とその発展、軍隊と学校の近代化に伴う知能検査に代表される心理学的測定法の発展の歴史を整理することはできても、行動療法と認知療法の出現以降に関しては、それぞれの学派の伝統が独自に発展し続けていて、近代から現代という大きな歴史の中に位置づけて統合的に語ることがほとんどできていないことに改めて忸怩たる思いを抱いた。
著者は本書では全く触れられていないが、内科医学的知識、薬理学的知識など専門医としての知識と思考力は当然ながら備えておられるはずでありながらも、上記のような社会学的な学識を十分に我が物にしている点で、すでに「知の巨人」となりつつある様子がうかがわれる。現代の「ケア」を本気で語るには、このような理系・文系の枠にとらわれない知の巨人たることが必須なのかもしれないと痛感させられた。
さらにこの博識ぶりは、柳田国男と折口信夫に代表される日本の死生観にも触れ、折口の「まれびと」論による「近代人の孤独」を重視している点も、かび臭い書庫(失礼!)にとどまらない実践的な論となっている。
このブログは極めて私的な「私設カウンセリングオフィス」のブログなので、この際遠慮なく評者の自己開示もさせていただこう。学部時代は文学部日本文学科にいて、柳田民俗学の正当な流れをくむ教授や、近代日本文学研究の大家たちの授業を聴きながら、「それで今生きてる人間はどうなん?」という疑問をぬぐい切れず、大学院から臨床心理学に転向した。そんな私としては、折口民俗学が現代人の孤独感や死生観につながっているとは思わなかったし、誰も教えてくれなかった。ましてや当時うっすらと感じていた柳田民俗学への違和感(他の学生や先生方は、崇拝していたのに)は、「僕の頭が悪いんだ」としか感じられていなかった。
ついでながらさらに言えば、漱石や太宰の作中人物やご本人の生き方には、あまり共感できなかったが、土居健郎の「甘え」理論が登場するまでは、私の中では「日本文学科に居ながら、漱石と太宰に違和感を持ち続ける、勉強不足な僕」でしかなかった。(当時の僕には、あの自決事件とは別に三島由紀夫の文章の方が、潔くてとりあえず論理性があって好感が持てたし、森鴎外のエリス事件からの逃げっぷりにはあきれてはいたが、鴎外の文章や論争は好きだった)
挙句の果てにさまよい続けて、親鸞聖人(「歎異抄」ではなく、本物の「教行信証」の方)を卒論のテーマに選んだ21歳の頃の僕だった。
ものすごく脱線してしまいました。。。
さて、本書のメインディッシュはもちろん、4章以降の26名の医師へのインタビューとその分析・考察である。
インタビューに先立って著者は、その倫理的配慮の中で、著者自身の立場を明らかにし、「医師が医師について考察すること」のメリットと限界についても明らかにしている。そして、それについての可能な限りの配慮もされている点が、冒頭述べた「真摯な本」である一つであるし、それがかなり成功していると言っていいだろう。
そして具体的には「終末期における入院への迷い」「終末期における点滴の可否」「ACP(厚労省の命名では「人生会議」)における、意思決定モデルの危うさ」などを通じて、在宅医がご本人や家族と一緒に迷い、時に医学的合理性を少し脇においても、害の生じないレベルで点滴を実施したり、迷いやブレに付き添うという姿勢を「ともに迷い、探求する実践」として、重要視している様子が描き出される。
ここで何よりも大切にされているのは「共同意思決定」であるが、それを表面的なものとせずに患者や家族の非言語のメッセージまでとらえて、「みんなの前では言えない」ような気持ちは一対一で聴き取ったり、経過とともにその決定が揺らいだりもするのを厭わないという、きめ細やかさの大切さまでをも含めて論じられている。
きわめて繊細であり、私の専門の臨床心理学においても、この共同意思決定という言葉はやっと市民権を得始めたばかりであって「どのようなカウンセリングをしていきたいか」に関しては、まだまだ繊細な意思決定プロセスを経ていない場合がほとんどであると改めて反省させられた。
さて、このようなどこまでも真摯な終末期在宅医療の実践に関して、「こんなに真摯に実践を積み重ねていて、バーンアウトしないのだろうか?」という疑問が湧いてくる。
実際に、終章で著者が触れているように、本書が「規範の提示」つまり達成すべきモデルの提示と受け止められたり、「このような医師はどうしたら養成できるのか」という質問をもらうことも少なくないという。この点に関しては、この書評の最後の部分で「方法論的課題」としても触れたいが、その前に評者としてとても納得のいく、本書のクライマックスというべき記述がある。
それは、第6章において繰り返し述べられている「めぐみのような相互承認」や「まるで恩寵のようにおとずれる感覚」についてである。
さらに少し長くなるが引用すると
*********
意思決定という文脈で言うならば、それは自律した個人の意思を合理的に調停して「決める」のではなく、それぞれが共同性や孤独を、そして受動性を引き受けつつ、ともにより良い道を探ってきた末に物事が「決まる」経験でもある。それは医療者も患者もそれぞれが唯一無二の道のりを懸命に歩んだうえでの必然ではあるが、目的でもなく結果でもなく、体感としては偶然や奇跡のように感じられるものである。(下線は評者による)(p265)
*********
在宅医たちは、患者や周囲の人々との関係の中に身を投じ、偶発性に身を任せながらもなんとか医学的な合理性から手を離さないために、さまざまな水準で自分を変え、時には自分の孤独に向き合い、苦悩や生活史も含めて振り返りながら関係の中に足場をつくり、そこにとどまろうとする。いのちの危機にかかわりながら他者を理解しようとすることで自己を超えた世界を自覚し、そのことで死生観を深め、いのちの尊さを自覚する。そしてそのことが「死者を忘れない」姿勢、そして死後もなおその人とのかかわりから学んだことを反芻し、次の患者に生かしていこうとする姿勢へとつながってゆく。これは、患者のいのちに向き合い、その語りを聞く、すなわち患者からの呼びかけに対して応答しつづけるという形で示される、今までとは異なる形で表れている責任の感覚である。(p277-278)
*********
本書のこのクライマックスを読めば、もう「バーンアウトは?」などの心配は雲散霧消する。
何を隠そう評者も若い頃から「特異体質」などと呼ばれ、夜遅くや土日にも臨床をやっていた身としては、とてもよくわかるのだ。
この恩寵がたまに得られれば疲れは吹き飛び、患者以外の人ともこれを感じられるという般化が生じるのだ!
(評者は、もちろん子育て中は夜間の臨床は制限し、土日のどちらかは家事育児に専念した。けれどもそれが空けた今となっては、また再び大学勤務の傍ら土日と平日朝晩の臨床で、この「恩寵」に浴しているが、他のスタッフにそれを求めてはいない。)
この恩寵は著者の言うように「孤独と他者性を自覚して実存的な問いを深めてゆく」(p259)「偶発的に「人と人としての」つながりの感覚を感じられる経験」(p262)というものであるので、まれにしか訪れない。だからこそ、中毒性(正しくは依存性)のあるもので、やめることができない。
このような恩寵を求めてしまう人間は、どんな人間なのかという問いはある。例えば、その昔、河合隼雄は心理臨床家についてではあるが「こんな大変な仕事をする人間は、きっと前世で極悪人やったんやろうと思う」と発言されていた。
本書の著者はどうかわからないが、評者の私は、おそらくそうだったに違いない。
けれども、このような限定的な「恩寵」を味わう感覚こそ現代のスピリチュアリティの中核だとも思う。あるいは、少し控えめに言って「現代のヒューマンサービスに携わる人間の専門的なスピリチュアリティ」と言っていいだろう。
そして、この恩寵こそが「お客様は神様」と言われてしまう現代日本で、ヒューマンサービスやケアの仕事にかかわりながらも、自己疎外や学習性無力感、あるいはその反対の拝金主義や神秘主義に陥らずに、実践を積み重ねていく唯一の原動力となるのだと思う。
以前評者(福島,2017)は「(カウンセラーの)「セルフケア」と「自己点検」は,基本的には「すべて臨床活動(訓練も含む)のなかでされるべき」と書いたりしてきた。つまりカウンセラーの臨床的なストレスは、十分な内省を経たのちに「クライエントと共有する」ことで、ストレスではなく前向きな取り組みとして解消されるとした。(ブログ「カウンセラーのセルフケアと自己点検」も参照)
このような「セルフケア」と「自己点検」という観点は、言葉そのものは世俗的なものではあるが、その本質はやはり「恩寵」をどう感じられるかだと思うのだ。
もっと大きく言えば、このような恩寵の感じ方には、オウム真理教事件から東日本大震災を経て、コロナ禍でダメ押しされた感のある「怪しいスピリチュアリスト」とはまったく違う、本当の意味でのスピリチュアリティの萌芽があるのではないだろうか?
以前のブログ「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)においても紹介したが、著者の大田が
「オウム真理教のようなカルトは、たまたま出現したのでも日本だからこそ拡大成長したのでもない。この問題はまさに近代というシステムが「死」の問題に対して答えを出せていないがゆえのことであり、その意味でこれからも同様のカルトが出現する可能性がある」としている記述を思い出す(下線は引用者による)。
この「死」の問題に、評者の私は「心理臨床の中でどう向き合ったらいいか」をいつも自問自答しながらいた。しかし、本書を読んで、ここに大きなヒントがあると痛感した。そして、やはり近いところにいるという実感も強めた。
現代のスピリチュアリティは、このようなコツコツと地味な実践を通じてしか立ち現れないのだ。
最後に、無理を承知で、あるいは評者の不勉強の可能性を顧みずに、方法論的な課題を記しておきたい。
それは、サンプリングの問題である。
このようなテーマのインタビュー調査は、心理学においてもサンプリングは「縁故法」となることが多いのは同様である。しかしながら心理学のインタビュー調査であれば、理論的サンプリングとして「対極例」を探すのが通例となる。人類学や民俗学でそのようなサンプリングが行われるのは見聞きしたことはないが、可能ならばそうすることで、より現状や実態に近い描写が可能になると思う。
つまりこの調査では、「在宅医としてバーンアウトもしくは他科に転向した例」や「関わりつづけない医療」を実践していると思われる例などとなろうか。
そうでない場合は、このような研究は、臨床心理学では「エキスパート研究」として、理想の実践者が、どのような変遷をたどって現在のような実践に至ったかを、詳しく考察するものとなる。
歴史の浅い分野や論争中の実践においては、対極例を平等に描き出す研究よりも、この「エキスパート研究」の方が、実践的な指針と課題を浮き彫りにするという意味でも価値が高い場合もある。
この辺りの位置づけや記述があるとさらに良かったと思う。
○文献
福島哲夫(2017) カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?臨床心理学第 17 巻第 1 号
大田俊寛(2011)『オウム真理教の精神史』春秋社
2025年
6月
09日
月
(本年6月末に久々の単著「プロカウンセラーの人を見る技術」が出版されます。ここでは、その中の1節をにさらに加筆したものを紹介いたします。以下のリンクから立ち読み・予約可能です
内閣府による令和4年の調査によれば、孤独感が「しばしばある・常にある」と回答した人の割合は4.9%、「時々ある」が15.8%、「たまにある」が19.6%でした。これらを合計すると40%を超えている計算になります。そして令和5年の調査と比較しても有意に増加していることが確かめられています。
この調査はインターネットによる2万人を対象としたものですが、本当に孤立している人はこのような調査に答えないかもしれないという意味では、実際はさらに高い割合になっているかもしれません。
さらに別の研究として、岩村暢子氏の『ぼっちな食卓』(中央公論新社、2023年)が注目に値します。氏の20年にわたる追跡調査によると、子どもが小学校・中学校という早い時期から家族そろっての食事にこだわらず、各自が好きなときに好きなものを食べるというスタイルになっていた家庭ほど、10年後、20年後に引きこもりや不登校、無断外泊が多くなる確率が高いとしています。
また、こうした家庭の特徴として「貧困」や「親の多忙さ」「複雑な家庭事情」などは認められず、その多くが「リクエスト食」と言われる子どもが小さいときからリクエストに応じて好きなものだけ食べさせた家庭や、「セルフ食」と言われる自分でコンビニで買わせたり、冷蔵庫の中の好きなものを「レンジでチン」して食べさせた家庭だったとしています。
このように、一見「自由と主体性」を早くから保証した家庭生活の方が、子育て環境としてはかえって望ましいものではなかったのです。
これは一体どういうことでしょうか。
さらにもう一つ興味深い指摘として、石田光規氏の『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマ―新書、2022年)があります。本書の中で石田氏は、「人それぞれ」という個人化が進んだ社会において、近隣や勤め先、親戚などの「余計なおせっかい」がなくなり、人が自由を満喫できるようになった反面、対人関係でトラブルになってもそれを修復するシステムが失われたために、若者の中で「友人であっても気を遣って、なかなか深い話ができない」人が年々増加して、結果的に「つながり」が不安定になっていると指摘しています。そして、この「不安定なつながり」を何とかしようとして、気遣いや「感謝」「嬉しい」といったポジティブな感情表現があるしっかりとした「コミュニケーション」を大切にするけれども、結果的には「ふれあい回避」になり、孤独感が高まっている様子を様々なデータから考察しています。
こうした状況を大きな流れの中で考えると、私たちはこの100年ほど、「いかに家族や共同体(村社会など)から解放されて自由になるか」を求めて生きてきたと言えます。故郷から離れて都会に移り住むこと。親の干渉を受けずに結婚相手を決めること。そして家ではそれぞれの部屋を確保して、干渉しすぎないで生活すること。さらにテレビや電話に代表される通信機器は、共有せずに個々人が所有して使うことなど。望むと望まないにかかわらず、私たちは「個別化」の急速な流れに乗っています。
そして家族そのものも、大家族から核家族へ、そして単身家庭の増加へと至ります。その流れの中で食事も、大家族が一室で同時に食べる形から、家族はいてもバラバラな食事に、一人暮らしの人は当然ながら「個食」になりました。このような個別化によって、私たちは自由や効率性などを手に入れてきたことは間違いないでしょう。
けれども、この個別化が「孤独化」をもたらし、さらに個食というスタイルは、少なくとも子どもたちには悪い影響を与えることがわかっています。
心理療法も「個」を重んじるものから「温かさ」と「つながり」を重んじるものに
このような流れを受けて、現代心理療法は「内省を通じて個を確立する」というものから「温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復を大切にする」というものへと変化しつつあります。
内省を通じて個を確立するためには、カウンセラーからの余分なアドバイスや肯定は要りませんし、距離もやや遠めがいいということが分かります。けれども温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復をするならば、カウンセラーのできるだけ誠意のあるアドバイスや肯定、近い心理的距離からの介入が必要となってくるわけです。
これは、フロイトもユングも(おそらく森田療法の森田正馬や、内観療法の吉本伊信も)大家族の中で日々暮らしていたことを考えても想像できるところです。そして、ユングが晩年は石ノ塔にこもって一人で生活していたということも、時代の先取りともあるいは、東洋的ともいえるかもしれません。この点に関しては、近い機会にまた別のブログで書いてみたいと思います。
子育てから効率性を排除する
プロカウンセラーとしての私は、時としてこの効率化とコスパ重視の社会に背を向けて、「効率性を排除しましょう」とアドバイスせざるを得ないことがあります。
それは思春期の子どもが、反抗的な態度で非行傾向を示して、夜はなかなか家に帰ってこず、繁華街の路上で長時間を過ごしているといった行動が明らかになったときです。この子たちの言動を細かく見聞きすると、明らかに親の愛情不足を訴えていて、そこから来る孤独感を何とかしようとして非行化していることがわかるのです。
そういうとき、私は親御さんに「できるだけ手間をかけましょう。干渉したりコントロールするのではなく、手間暇をかけるのです」「もし学校のことや勉強のこと、お金のことやその他のことで『どうするのが正解か』迷ったら、『手間暇のかかる方』を選んでください。送り迎えでも、食事でも、塾選びでも何でもかまいません。それが今、愛情を伝える唯一の方法です」と伝えます。
晩ご飯をどうするか迷ったときには、たとえ子どもがコンビニ食を希望しても、わざわざ手作りのご飯を作る方がいいのです。
このアドバイスを親御さんが実践していくと、子どもの非行や外泊はだんだんと減っていきます。もちろん、過干渉で問題が生じていると思われる親御さんには「もうこの年齢なので手放しましょう」(本書の別の章参照)というアドバイスするのですが。
今後も、この個別化の流れはとどめることは難しいかもしれません。けれども、そのような流れの中で、私たちはいかに「孤立と孤独」を避けるシステムや社会を作っていけるのかが問われていると言えるでしょう。
ただし、これ以上子育てに手間をかけろなんて言うと、さらに少子化は進んでしまうかもしれません。その意味では「塾や勉強に手間をかけるのではなく、大人も子どもと一緒に遊ぶ時間を増やしましょう」という提言をしたいと思っています。
以上
2025年
5月
05日
月
私たち現代人は「着ぐるみ」的な生き方を強いられていると言えます。
「着ぐるみ的な生き方」とは、現代の若者に代表される傾向として、「ソフトで人当たりのいい」、「平和主義者」として世の中から逸脱せず、「個性的」と言われるような悪目立ちはせず、「いい人」としての生き方を強いられている生き方です。
それはまるでゆるキャラの着ぐるみを着ているような状態で、本当の自分とは別の姿です。そしてその着ぐるみの中はじつはとても暑かったり、暗かったりで、孤独でネガティブになりやすい状態です。着ぐるみはしゃべることを許されず、中でひっそりとつぶやく言葉は、驚くほどネガティブだったりするけれど、それを誰にも言えないので、SNSなどでこっそりつぶやくしかないのです。
そして、この着ぐるみはいろいろと身に着けているものは多いのに(というかだからこそ)、案外不安定で余裕がありません。着ぐるみ同士でうっかり近づきすぎて、ハグしたり支えあおうとしたりすると共倒れにもなりかねません。なので、少し離れたところから両手を精一杯振るしかないのです。つまり、あまり「心から共感」したり「コミット」したりするのは、とても危険なことなのです。そして「みんな人それぞれだし・・・」と思っているのです。このことがさらに着ぐるみさんたちの孤独を深めているのかもしれません。また、この着ぐるみの中で誰にも見えない「傷」を抱えて、それがずっと癒されないままになって痛み続けていることも多いのです。
カウンセラーとしての私は、このような現代人が着させられている(着るしかない)着ぐるみを、まずは着ぐるみそのものとして理解して支援し、さらにその中に入っているのはどのような人なのかを推測しながら、共感的に支援するという営みを続けています。
世の中では実際に近年、着ぐるみやゆるキャラが全国的にとても人気を博していますが、私自身はいつも「中の人」のことが気になってしまいます。とりあえずその場では人気者だったり喜ばれていますが、それはあくまでも「着ぐるみ」が喜ばれているだけです。そして、そのことは着ぐるみを着ている当人が一番強く感じていることなのです。
この「中の人」は、自分でどんな着ぐるみ(時にゆるキャラ)を着ているかはわかっていても、中の人として本当は何を感じているのか、何に苦しんでいるのか、そしてなぜこのような状態になっているのかは、よくわかっていない場合が多いのです。なので、カウンセラーとしては、ご本人の言葉と振る舞いをたよりに、ご本人も気づいていなかった「中の人」を理解して、できるだけ無理なくその人らしさが生かせる形で支援しようとしています。
こういったいわば「できるだけ温かくて共感的な理解」こそが「カウンセラーの分析術」だとも言えます。なぜならそのような「温かくて共感的な分析」こそが、実際の支援としても有効だからなのです。つまり、「温かくて共感的な分析」を通じて、上記の「着ぐるみ」が、だんだんと薄くなって、被り物だけでも外せたり、全身がせいぜい透過性のいい(ゴアテックスの)レインスーツくらいになっていけるのです。
2025年
1月
03日
金
大学が冬休み中ですので、久しぶりにブログを書きます。
今回は、書評です。
まず、一読しての感想は「自由な人の書いた自由な本だ!」でした。
そしてサブタイトルに「新人間学」とあるように、徹底して「人間的」だということです。
クライエントとの面接室外での交流、セラピストの驚くような自己開示等々。
時には増井先生ご所有のヨットにもクライエントを乗せ、バイジーたちはバリ島の増井先生の別荘で過ごした思い出を語る。
バイジーたちは毎回の増井邸でのSVの際、妻の直子さんによる送迎とお茶とお菓子のもてなしを(おそらく)必ず受け、帰りの直子さん運転の車の中では、様々な話題が弾む。。。
これらの記述を読み、まず思い出したのが1980年代頃の日本の心理臨床シーンである。
当時、大学院生だった私(評者)は第一線のセラピストたちの集まる懇親会で、先生方が「いやー我が家に(Clの)男の子を預かるのは、家に娘がいるとちょっと心配やなー」等々と語り合っていたのを聞き、「はー、そういうもんなんだな。。。」と多少の違和感とともに受け止めていた。
その席では国分康孝先生(1930年生まれ)、東山紘久先生(1942年生まれ)が特に強く同意しておられたのを記憶している。またその場にはおられなかったが河合隼雄先生(1928年生まれ)は、その名著「カウンセリングの実際問題」に不登校の少年を自宅にしばらく預かっていたことがあると書かれている。かように河合先生の世代とそれに続く先達たちは、クライエントとの枠外での接触について積極的だった。
この本の著者の増井氏は河合先生より20歳近く年下(1945年生まれ)ではあるが、その伝統をしっかりと受け継いでおられるように思う。思えば増井氏よりも7歳年上(1938年生まれ)の評者の最初の師匠、小川捷之先生も若い時、クライエントの男の子とアパートの隣同士で暮らして、毎朝ランニング等をしていたと語っていた。(その男子は、その後、小川先生のいる横浜国立大学の学生となり、ゼミ生となっていた)
さらにその3歳年上の村瀬嘉代子先生(1935年生まれ)は、クライエントを自宅の夕食に呼ぶことがしばしばあったと論文にも書かれている。
以上のように、1980年代までは当然のように行われていた「Clとの枠外での交流」は、次第に影を潜めて、少なくとも公の場では語られなくなった。
その意味で、増井氏の本書は「古き伝統」をしっかりと残してくれている貴重な資料とも言える。
それにしても、である。
今の時代に改めてこのような記述を読むと、セラピーの構造に関しては、ある程度の柔軟性を持った方がよいと考えて実践している私(評者)から見ても、「大丈夫なのだろうか?」と思わざるを得ない。
現在の私は、クライエントと面接室外で会うことはないし、バイジーさんたちとも学会や研修会以外ではほとんど接触しない。
ましてやヨットも別荘も持たないので、招きようもない。
自宅でのホームパーティも学部学生以外には呼ばない。
(やはり日本は貧しくなっていっているのかもしれない・・・。)
今の私は「枠外の」関係なしで、いかに人間的に触れ合い、自由な関係を持てるかを模索しているつもりである。
けれども、インターネットが普及し、SNSが盛んとなり、カウンセリグオフィスではそのホームページにセラピストの情報を載せるのが必須となり、さらにはセラピストの名前を検索すれば、様々な情報が入る現代となって、この問題は別の形で熟考に値するようになっても来ている。
クライエントの方々は、あらかじめ種々の方法でセラピスト情報を手にすることができ、それがいる種の安全性を確保することにもつながる反面、セラピーの経過中でのそれらの情報は「雑音」ともなって、クライエントを苦しめることにもつながる。
本書にはそのようなデジタルツールにおける交流や一方的な曝露については書かれていないが、「枠外でクライエントと接触して、関係性が危うくなることはないのだろうか?」という疑問を持ちながら読み進めたところ、P59に以下のような記述が1回だけされていた。
「本書で提案する方法の適応性は各種の神経症レベルまでで、ボーダーラインのケースや統合失調症には別のアプローチを考えています」と。
たしかに、その範囲に限定すれば、増井氏の臨床的提案はある程度の妥当性があるだろう。
けれども、評者をはじめ臨床心理を専門とする読者が一番読みたいのは、その例外をどのように見極め、どのようにマネージするかという点ではないだろうか。
さらには、神経症レベルともボーダーラインレベルとも言えるトラウマ関連障害をもつクライエントさんに、どう人間的に触れ合うかを学びたいと思っているのではないだろうか。
そのような問わず語りはさておいて、第4章に述べられている以下のような15の原則は、とても示唆深い。
1.治療者が一人の人間に返ることー治療者が面接の場で「自分」に立ち返ること
2.患者さんを肯定的に見ることができる基本的な考え方ー症状能力について
3.治療場面構造の調整(評者注:自由で柔らかな治療構造)
4.面接初期に確認した方が良い要件(評者注:先入見にとらわれない初回面接で「よくなることのイメージの点検」や「趣味や時を忘れるようなことや物の確認」
5.分かりやすく説明する
6.やりたいこと見つけー治療学は休養学です
7.イメージで聴くこと
8.良くなっているところを顕微鏡で見るように拡大して見る
9.手のつけやすいところから手をつける
10. 性格を変えようとせず、環境を変えてみるー架け橋としての治療者
11. 問題を容れ物に入れてどこかに置いておくこと、距離を置いて自分を眺めること
12. 自殺予防
13. 理論を信じず、その場の自分の体験を信じよう
14. 直感を信じること
15. ドタキャンあり
これらは、著者の名人芸的な事例の数々とともに紹介されている。すべて賛成できるものであり、評者も自分なりに実践しているもの(のつもり)である。
そして、ここには著者の師匠格である神田橋先生の影響が色濃く認められる。
評者自身も20代の終わりから30代の前半にかけて、神田橋氏先生の事例検討セミナーに毎月参加して、それまでの理論重視の教えからずいぶんと解放された気がした経験がある。
けれども、やはり先に述べたような面接室外を含む自由な関りを、現実適応力は高いけれどもボーダーライン的な要素を持つクライエントやトラウマに苦しみながらも、現実はしっかりと保って生きているクライエントにも持つのか等々、疑問は尽きない。
上記の1~15の原則については、本書の後半でのバイジーさんたちの記述が、増井氏の新人間学とされる臨床的な姿勢について、その具体的なコツをかなり補足してくれていて、伝わりやすいものになっている。
言い方を変えれば、増井氏の(現代日本においては)自由過ぎる姿勢を、もう少し現代風に解題してくれているとも言える。
なかでも浅野みどり氏の論考は、セラピストの自己開示やノンバーバルな部分の大切さ、そして何より枠外でのクライエントとの接触について、「非性的な多重関係」として丁寧に論じられている。そして、クライエントとの「個人的な関係」について、抑制のきいた文章で慎重に論じられている点で、増井氏の論考を補足して余りあるとすら言える。
本書に見られる、増井氏の論述とバイジーさんたちの論述の自由度の違いとも言える温度差、そして筆者と評者との姿勢の違いは一言で言ってしまえば、「時代の違い」から来るものが多いと言えるだろう。
けれども、「時代が違うから」と一言で済ますのではなく、その中から引き継ぐべきものと変えていくべきものをしっかり弁別する必要がある。
枠外での交流は控えるにしても、いかにClと人間的な交流を保ち続けるか、そしてそれでありながら、その限界をもわきまえて「出来ることと出来ないこと」のバランス、理想主義と現実主義のバランス、専門性と人間性(職業的関係と人間的関係)のバランス等々、種々のバランスを最適に保つかが問われているのだと、あらためて意識させられる良書であった。
以上
2024年
8月
20日
火
第12章 統合的心理療法が最も役立つ複雑性PTSDの治療―トラウマのメガネと統合的技法が最大限生かされる時
1.はじめに
この章では、統合的心理療法の応用編として、トラウマインフォームドケアの考えに基づく複雑性PTSDの統合的治療について、解説します。
近年、トラウマインフォームドケアと、複雑性PTSDの治療が注目されてきています。
このトラウマインフォームドケア(TIC)とは、支援者たちがトラウマに関する知識や対応を身につけ、対象者の人たちに「トラウマがあるかもしれない」という観点をもって対応する支援の枠組みです。このTICという考え方は、2000年代以降、北米を中心に広がりを見せ、近年日本においても、医療、福祉、司法、教育の領域にも適応されるようになってきています(大阪教育大学,2023)。
この考え方は「トラウマのメガネ」とも呼ばれていて、「この人(子ども)の、一見理不尽な言動や、過剰な反応の裏にはトラウマがあるのかもしれないという目で見てみる」ということの意義が唱えられています。「色眼鏡で見る」と言えば「物事を歪んだ(偏った)見方から見る」という否定的な意味で使われますが、この「トラウマのメガネ」は、これをかけて初めて問題の本質が見え、正しい対応が見えてくるという意味で、大切な発想となっています。
このような考え方が出てきた背景の一つには、1990年代後半から行われるようになった小児期逆境体験(Adverse Child Experiences: ACE)研究の蓄積があります。これらの研究で、関係者が考える以上に多くの人が虐待や家族機能不全といった逆境体験をもっているだけではなく、さらにその後の逆境体験を重ねれば重ねるほど行動面、心理面、健康面のリスクが高まることが明らかにされました。逆境体験がすべてトラウマになるとは限りませんが、トラウマを理解して対応していくことの必要性が認識されるようになりました(大阪教育大学,2023)。
また複雑性PTSD(Complex PTSD:以下CPTSD)は、ハーマン(Herman,1992)によって提唱されて以来、診断概念としては正式に認められないままに今世紀に至っていましたが、ICD-11(世界保健機構国際疾病分類第11版)により、2022年にWHOにおいて2019年採択2022年発効という形で正式に認められました。これはこれまで米国精神医学会の診断基準DSM-5でははっきりと定義されなかった長期反復性のトラウマのサバイバーに関して、複雑性PTED(CPTSD)が、公式診断とされた画期的な出来事と言っていいでしょう。
振り返ってみれば、私たち心理職は、すでに長い間「トラウマ」や「虐待」そして「機能不全家族」などの概念には親しんできたものの、それらに対して系統的で体系的なアセスメントやセラピーの訓練は受けてきていませんでした。けれども、今思うと「あのケースもそうだった」と強く思わされる事例が多く、これは「発達障害」が初めて本格的に紹介された頃の感覚に近いものがあります。
2.複雑性PTSD(ⅭPTSD)とは
ⅭPTSDは、ハーマンによって1992年に提唱されたもので、定義としては以下のようになります。「極度に脅威的ないしは恐怖となる性質の出来事で、最も多くは、逃れることが困難ないしは不可能で、長期間あるいは繰り返された出来事に曝露したあとに生じる障害」(World Health Organization,2018)。そして、このような出来事の例として、拷問、奴隷、虐殺、長期的な家庭内暴力、繰り返される子ども時代の性的もしくは身体的虐待などがあげられています。
そして以下のような症状を伴っているとされました。
①再体験症状:re-experiencing;再体験
鮮明な侵入的記憶で、フラッシュバックや悪夢の形による、トラウマ的な出来事が今起きているように感じる再体験
②回避症状:avoidance of traumatic reminders;回避
出来事に関する思考や記憶の回避、あるいは出来事を想起させるような活動、状況、人物の回避
③脅威の感覚(過度の警戒心):persistent sense of current threat that is manifested by exaggerated startle and hypervigilance;過覚醒
今も脅威が高まっているような持続的で、過度な警戒心ないしは不意の物音などに対する過剰な驚愕反応
④感情制御困難:affective dysregulation;感情の調整不全
情動反応性亢進(気持ちが傷つきやすいなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および陽性の感情の体験困難
⑤否定的自己概念:negative self-concept;否定的な自己概念
自己の矮小感、敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広範な恥、自責の感覚
⑥対人関係の障害:disturbances in relationships;関係性の障害
他者に親近感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ
以上のうち①~③はPTSD(心的外傷性ストレス後症候群)と同じです。そして④~⑥は自己組織化の障害と呼ばれるものです。この自己組織化の障害とは、一言で言えば「自分を保っていることがとても難しい」状態だと言えます。
けれども臨床的には境界性パーソナリティ障害(BPD)との区別が難しいともされています。BPDは上記④~⑥の自己組織化の障害に加えて、「見捨てられを防ぐための極端なしがみつき」「理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係」「とても不安定な自己感覚・自己イメージ」が特徴とされます。また、自殺企図や自殺行為がBPDでは高く(約50%)、CPTSDではPTSDと同様に15%前後とされています。
表10-1.境界性パーソナリティ障害(BPD)とCPTSDとの鑑別(飛鳥井,2021をもとに筆者が作成)
自己組織化の障害(DSO) |
BPDとCPTSD |
主な違い |
自己概念の障害 |
BPD |
アップダウンする不安定な自己感覚 |
CPTSD |
常に否定的な自己感覚を反映 |
|
対人関係の障害
|
BPD |
急に変化しやすい対人交流パターン(ex.理想化とこきおろし) |
CPTSD |
対人関係の持続的回避傾向(親密な関係を避けてしまう) |
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その他 |
BPD |
操作性、衝動性、見捨てられ不安、自殺企図や自傷行為の反復などの特徴 |
CPTSD |
自殺企図や自傷行為が出現することもあるが、病態の中心ではない。 トラウマ特異的なPTSD症状の存在がある。(ex.様々な身体症状や自律神経の不調)
|
また、岡野(2021)は、CPTSDの治療の際には、従来の精神分析的な治療を、以下のように変更する必要があるとしている。
表10-2.CPTSD治療のための精神分析治療の変更点(岡野,2021をもとに筆者が作成)
主な変更項目 |
内容 |
①治療関係の安全性と癒しの役割
|
治療場面が傷つき体験とならないよう、治療構造の「柔構造」的なあり方が必要 |
②トラウマ体験に対する(加害者側に立つと誤解されない)真の中立性 |
必要に応じてThの態度表明や感情表現をすることが真の中立性を保つうえで重要 |
③愛着トラウマという視点
|
治療者は過去のトラウマの想起やその治療的な扱いを優先的な治療目標とする姿勢から離れる。まずは安全な治療関係を形成することを第一目標とすべき |
④解離の概念の重視
|
解離・転換症状を扱うことを回避せず、症状や主張の背後の意味を読み、受け取っていく |
⑤関係性や逆転移の視点の重視
|
治療者側の救済願望により、治療関係が新たなストレス体験とならないよう、来談者への気持ちに常に適度なブレーキを踏み続けるような治療関係が望ましい |
⑥倫理原則の遵守 |
トラウマ体験により治療者に対しても加害的イメージを投影する可能性が高いため、最大の配慮を払う |
これらは、世界的な趨勢でもあり、主な現代心理療法や20世紀末から21世紀にかけて生まれた新しい心理療法は、全てこの傾向を備えているとも言えます。また、統合的心理療法もこの方向性にあることは疑いようがなく、上記の姿勢に「複数の異なった治療理論や治療技法を駆使する」を加えれば、そのまま統合的心理療法になると言っても過言ではないでしょう。
また、これまでの筆者の経験からも、とくにCPTSDのClには、単一技法はあまり効果的ではなく、「柔構造」の中で、ThがClの味方であるという「態度表明」や「感情表現」を通じて、決して冷たい中立性ではなく、加害者に怒りも感じる道義的な人間としての安心・安全感を持ってもらう必要があります。そしてまずはセルフケアやストレスコーピングの具体策について、時に心理教育もしながら、さらに症状を乗り越えていくためのワークを導入する必要もあります。時には家族に会う必要もあり、場合によっては家族や加害者とその関係者へのメールなどを作成するサポートも必要と考えます。
以下に、いくつかの事例とともに、このようなCPTSDへの統合的心理療法のあり方を検討していきたいと思います。
(以下、省略)表10-4参照
※今回の記事は2015年の「臨床心理学特集号-カウンセリング・テクニック」(金剛出版)に掲載されたものの元原稿に加筆修正したものです。
-カウンセリングのベーシックテクニック6
[理解]触れあう=「今ここ」での関係
(大妻女子大学/成城カウンセリングオフィス)福島哲夫
Ⅰ はじめに
カウンセリングでクライエント(以下Cl)とセラピスト(以下Th)が触れあうということについて、わかりやすく説明するのはとても難しい。色々なレベルの触れあいがあり、さらにどのように触れあうと、Clがどのように感じるのかが予測も効果もなかなか分かりにくいことが多いからだ。
ここで、カウンセリングにおける出会いと触れあいを、イヌ(Th)とネコ(Cl)の出会いにたとえてみたい。街角で初めて出会ったイヌとネコを想像してみよう。あるいはもっと正確なたとえにするとしたら「一見、優しそうな表情をしたイヌの所に、元気のなさそうなネコが来て、ちょっと様子をうかがう」とした方がいいかもしれない。ネコは見るからに弱っているかもしれないし、見たところ普通だけれども目だけがおびえていて、逃げ足は速いかもしれない。あるいは意外にも喧嘩っ早いトラブルネコで、簡単には触れあわせてもらえないかもしれない。反対に一度気を許すととんでもない甘えん坊の「かまってちゃん」ネコかもしれない。
一方、イヌの方は例外なく初めは一見優しそうにしているだろう。でも、実はがっちりと飼い主や組織に管理されている、まさに「○○のイヌ」かもしれない。さらには飼い主や師の教えにものすごく忠実な「忠犬」で、全ての活動は「教えを守るため」あるいは「教えの正しさを証明するため」だけにされているかもしれない。そして、ひそかに(名誉や権力)に飢えているかもしれない。反対に飼い主や世の中に強い反感を持っているかもしれない。もっと多いのは「世の中のかわいそうなネコを救うことに全身全霊を尽くしている」という、いわゆるヒロイックなお助け犬かもしれない。
このようなさまざまな個性を秘めたネコに対して、別の意味で様々な個性をもったイヌが、どのようにしたらしっかりと役に立てるのだろうか。一筋縄ではいかないけれど、それでも何らかの形で、触れあって、何らかの形で働きかけないといけないだろう。触れあうことに慎重になることは何よりも大切だけれど、慎重にやりすぎて、ネコが失望して路地裏や野山に去っていっては役に立てない。そのネコが捨てネコなのか迷いネコなのか、あるいはいじめられネコなのかによっても、必要とされる対応が全く違う。
以上、かなり突飛なたとえだったかもしなれいが、カウンセリングにおけるClとThの出会いと触れあいを考えるときに、主訴や相談内容とは別に、様々な要因が絡んでいることをまずは意識しておきたい。そして、このような様々な要因のうちのCl側のそれは、始めから明らかな場合も多いが、Th側のそれは、Th自身にもよくわかっていないまま巧妙に覆い隠されつつ、それでも数回会ううちに、2人の関係に多大な影響をもたらし始めるのである。
Ⅱ 「今ここで」触れあうとは-ロジャース・精神分析・ユング・認知行動療法-
カウンセリングにおいてThとClが心理的に触れあうとは、どういうことだろうか。ロジャース,C.R.による、「治療過程が生じる条件」としてあげられている6条件のうちの第1条件が、まさにこの触れあいに関するものである。それは「二人の人が心理的な接触をもっていること」とされている。そして、第2条件以下は、例の主要3条件とそれがClに伝っていることなどが続く。
しかしその一方で、精神分析においては「Clの欲求を満たしてはいけない」として、Clの触れあい欲求や不安低減欲求をある程度でも満たすような治療法を「支持的療法」として、下に見る傾向がある。でありながら、やや古い研究ではあるが、精神分析的精神療法で顕著な改善を示したのは、全て支持的な精神療法だったとの報告もある(生田、1996)。
ユング派においては、箱庭療法を分析心理学の技法として導入したカルフ,D.の「自由で保護された空間の中での、母子一体感にも似た」という言葉からも、十分に触れあいを重んじていることがうかがえる。ユング自身の著作に当たれば、とくに『分析心理学』や『転移の心理学』の中で、ClとThの無意識的な触れあいである「神秘的関与」による両者の変容が、その危険性への十分な注意喚起とともに述べられている。
認知行動療法(CBT)においては、触れあうことはとくに述べられていないが、「ホットな認知を扱う」として、感情を伴った認知を喚起する場合がある。おそらくこのような認知を取り扱う際には何らかの触れあいが生じているに違いないと思われるが、あまり正面から「触れあい」として取り上げられることはない。
筆者の基本的な姿勢は、統合的心理療法を探るというものである。このような技法も態度もClに合わせてカスタマイズするという考え方から、この項の結論を述べてしまえば『Clに応じて、最適な形で触れあうことをめざす』ということになる。それは単にクラエントの求めに応じるわけでも、Clに同調するわけでもない。あくまでも「その個々のClに最適な」触れあいをめざすのである。
そんなことがいったい可能なのだろうか。不可能である。けれども、不可能と知りつつめざすことが、不可能だからめざさないよりもはるかに質の高いものになると考えている。では、何をよりどころに最適な形を推測するのかは、この項の後半で述べることにする。
Ⅲ 各学派での「触れあい」方
来談者中心療法における「触れあい」は、Thの「うなずき」「相づち」から始まって、Thの共感と「無条件の肯定的関心」によって、すでにある程度成立する。さらにThの純粋性に由来する「Thの自己開示」によってなされることが多い。
また、精神分析技法における「今ここhere and now」では、主にClがこれまでの人生で繰り返してきたパターンをThとの間でも繰り返していることを、Thへの転移を指摘することも含めて、まさにその瞬間に指摘する技法である。その意味では直面化などの解釈技法の中心となるものであるので、詳しくはこの特集の「解釈」の項に譲りたい。この解釈技法であっても、自我心理学的な精神分析における「解釈の投与」から、サリバン,H. に代表される対人関係学派やウィニコットやビオンに代表される対象関係論、さらにはKohutの自己心理学派のかなりソフトな「言葉による触れあい」と言ってもよさそうな解釈の伝え方まで、かなり幅があると言える。
さらに近年確立されつつある、統合的な心理療法のいくつかの中でも、触れあいは様々な言葉で重視されている。感情焦点化療法(EFT: Greenberg)では、まさに感情に焦点化していくために、「空の椅子」や「二つの椅子」の技法を使いながら、ThがリードしつつClのこれまで封印されてきた感情にまで触れていく。この際にThが共感的に肯定すること(empathic affirmations)や共感的に探索すること(empathic exploration)が重要視されている。また、精神力動的なアプローチから発展した短期力動療法の一つである加速化体験療法(AEDP: Fosha, 2000)では,面接の場の安全性を確保するために,Clを積極的に肯定すること(affirmation)を重視しながら、トラウマティックな感情に対して「そこに私(Th)といっしょに留まって!」と伝えて、十分に触れていくことで変容を促進する。さらに弁証法的行動療法(DBT: Linehan,1993)では、Validation(承認)やCheerleading(はげまし)によってClの問題行動を「これまでの経緯からすれば妥当なもの」と認めつつ、新しい行動を応援するという形で触れあっていく。
おそらくシステムズアプローチやその他のブリーフセラピーにおけるリフレーミングやエンパワメント(どちらも本特集の別項を参照)も、結局は触れあいながら行っているという点では触れあい技法でもある。
Ⅳ verbalな触れあいとnon-verbalな触れあい
-「アイコンタクト」「うなずき」「相づち」「沈黙」「声のトーン」「笑い」-
これまで論じた理論や概念を抜きにしても、ThとClが会った瞬間から、すでに視線で触れあいが始まり、Clが話し始めれば「うなずき」「相づち」の形で触れあいが進んでいく。さらに沈黙にどう対応するか、声の大きさや話すスピードによっても、触れあっているかどうかの差は截然とする。そしてそれらがうまく進んでいった後に自然な「微笑み」や「笑い」にまで到達できれば、かなり触れあえているかもしれない。これらは全て基本的にはClのスタイルに合わせるべきである。アイコンタクトは「じっと見つめてくるClには、こちらもじっと見つめて」いく。反対に目を逸らしがちなClには、Thも見つめすぎないように」することが大切である。そして「ヒソヒソ話」には「ヒソヒソ話」で応じることで、静かだが劇的な触れあいが生じることもある。
もちろん、描画や箱庭による触れあいや、時によっては筆談も、例外的には動作療法のような身体的な触れあいもある。いずれにしてもnon-verbalな触れあいは、とてもインパクトも影響力も大きいのにThの側は、定型化して慣れっこになっていたり無神経になっていたりする場合がある。時々、自分の面接を録音・録画して、自己チェックや仲間同士のチェックを受けるとこのような歪みが修正できる可能性があるので、お勧めする。
Ⅴ 添った触れあいとズラした触れあい
とくにnon-verbalな触れあいは、触れあっていればいいというものではないし、「Clにぴったり添った触れあいができていればいい」ということでもない。例えば、いつもとても明るく元気よく話すClにこちらも合わせて、明るく元気よく話し続けて「先生、能天気なんですね」と言われたことがある。反対に、Clに合わせて暗く沈黙がちに対応していて「そんな暗い顔しないでください」と言われてしまったこともある。どちらの例も、このように言われること自体は悪くないし、こう言い合える関係があるということは、関係作りに成功していると言える。しかし、このように言えずに不満を募らせていって、関係が修復不能にまでなる場合もある。
声のトーン、話す速度、目線、沈黙、笑い等々のすべてに関して、Clのそれに合わせつつも「合わせ過ぎない」という「意図的なずらし」も必要なのである。速くて大きなしゃべり方には、それとかけ離れない程度のゆっくりめの中くらいの声で応じる。表面的な語りには、それよりもやや深めた内容で返すなどの意図的なズラシである。同様に、あまりにも沈んだ沈黙がちのClには、それよりもやや明るめの声で、少しThの方が言葉を多めにする場合も必要だと思う。笑いに関しては、ここで短く論じるのはとても難しいが、基本的にはClの笑いについていくべきであるが、「ごまかし」でない笑いが自然に起こるようなセッションは、これこそまさに触れあいの極意と言えるだろう。
Ⅵ 触れあうこと、それはパンドラの箱を開けるのに似たリスクを含む
ここまで述べてきたが、「触れあい」がリスクをはらんだものだということを強調しておかなくてはいけない。自己開示も「今ここで」の解釈・直面化も、non-verbalなものも、すべて下手にやったらClを傷つけたり、セラピー関係を修復不能なまでに損なうことがありうる。
けれども、この「触れあうこと」なしには本当の変化が生じることが難しいケースが多いのも事実である。ある女性専門職のClは、30回近いセッションを経た後にThの対応のズレに対して、Thの促しに応じてかなり厳しいTh批判を繰り広げ、その後に初めてThへの信頼感がもて、自己愛人格傾向が弱まって行った。これも、通常ならば「何もしない」はずの所で、Thがあえて触れあっていったからこそ起こった怒りであり、厳しい批判であった。
このように、触れあうことはそれまでClが固く閉ざしていた心の中の「パンドラの箱」を開けることにつながり、そこには激しい怒りや深い悲しみ、雪女のような触れるものすべてを凍てつかせる恨みが秘められているかもしれない。しかし、これを開けなければ変容が訪れないなら、慎重に意図的に開いていくしかないのである。
Ⅶ どのようなClにどのように触れあって行くのか
では、本項の本題ともいうべき「どのようなClにどのように触れあっていけばいいのか」について、簡単に解説したい。福島(2006、2011)においては、Clの内省力と変化への動機づけを簡単な質問でアセスメントして、それに応じて大まかに4種類の態度と技法を調整すべきであるとした。
ここにごく簡単にまとめれば、内省力と動機づけのともに高いClには、受身的中立的な態度で、まさにこれまでの教科書にあるような来談者中心的あるいは精神分析的な触れあいから、洞察を促すような態度がよい。しかし、動機づけが高くとも内省力の乏しいClには、Thがリードしつつ触れあいつつ、心理教育を中心とした関わりが必要である。さらに内省力が高くとも変化への動機づけが低い場合には、Thは積極的に感情面に触れたり、Th自身の感情をある程度開示したり、「肯定的介入」でClと触れあったりしないと変化が生じない。最後に動機づけと内省力のともに低い場合には、触れあい自体が難しいが、Thの肯定的な触れあいや、時にはTh自身の失敗談や挫折体験をすら含んだ「体験の自己開示」が有効な場合もある。本特集の別項「ミラクルクエスチョン」や「リフレーミング」が特に有効なのも、この領域のClである。(図2.参照)
福島の統合モデルでは、これら以外にClのスピリチュアルな次元にも、響きあう領域で深めていくということも含まれている(図3.参照)が、詳しくは上記の論文や著書を参照していただきたい。
Ⅷ 今後の展開
筆者は、ここ数年、これまで述べてきたような「触れあい」に関して、シンプルに「ClとThの心理的距離」という視点からとらえられないかを試みている。2つのスケールを、カウンセリング・ロールプレイや試行カウンセリング、さらにはカウンセリング実験の評定軸として用いて、ある程度の有効性が確認できている(樽澤・福島2015)。少なくともTh側がこのようなスケールを頭に入れて、「今ここで」の関係性への感覚を研ぎ澄ますことが何より重要と思われる。
さらにMallinckrodt,B. et al.(2014)によって試みられているような、理想的な「治療的距離」とClのアタッチメント・スタイルとの関連を探ることによって、Clごとに異なる理想的な触れあいを提供する際の指標となるのではないかと考えている。Mallinckrodt,B. et al.によれば、治療前に回避的なアタッチメント・スタイルを示したClはThの関わりを「近すぎる」ものとして知覚し、反対に治療前に不安を感じていたClはThの関わりを「遠すぎる」と知覚していたという。さらに、治療の進展によって回避的だったClはThに対して関わりをもつようになり、反対に治療前に不安の高かったClは、期待に反して治療後も自律性が高まっていなかったとしている。
この研究はまだまだ試論の段階であり、Clのアタッチメント・スタイルや治療的距離をどのように測定するかという方法上の問題もあるが、「個々のClに最適な触れあいを探る」という点では、可能性に満ちた研究だと言える。
いずれにしても、触れあい方に唯一正しい定式化された解はない。何らかの指標を持ちながら、その瞬間瞬間に最適なものを選び取っていくしかない。その意味で、「探究する姿勢」が欠かせないということを強調して、この項を終わりたい。
文献
Bion,W.R.(1970). Attention and Interpretation. Tavistock, London. Maresfield Reprints, London, 1984
Fosha, D. (2000). Transforming power of affect: A model of accelerated change. New York: Basic Books.
福島哲夫(2006)心理臨床学の基礎としての折衷・統合的心理療法-基本的態度の微調整と技法選択に関する試論-.大妻女子大学人間関係学部紀要,8,49‐61.
福島哲夫(2011) 心理療法の3次元統合モデルの提唱−より少ない抵抗と、より大きな効果を求めて−日
本サイコセラピー学会雑誌 第12巻第1号 51-59
Greenberg LS, Rice LN, & Elliott R(1993):Facilitating Emotional Change : The Moment-by-Moment Process. New York: The Guilford Press. 岩壁茂(訳)(2006):感情に働きかける面接技法-心理療法の統合的アプローチ- 誠信書房
生田憲正(1996)精神分析および精神分析的精神療法の実証研究(その1)-メニンガー財団精神療法研究プロジェクト-精神分析研究 第40巻、1-9.
カルフ,D.(1999)カルフ箱庭療法[新版](山中康裕監訳) 誠信書房
Mallinckrodt,B. ,Choi,G.,& Daly,K.D.(2014) Pilot test of measure to assess therapeutic distance and association with client attachment and corrective experience in therapy. Psychotherapy Research,
Linehan MM(1993):Skills training manual for treating borderlines personality disorder. New York: Guilford Press.
樽澤百合・福島哲夫(2015)カウンセリング場面における聴き手の頷き量が話し手に与える影響に関する実験研究-知覚された共感性、快感情、心理的距離に注目して-.日本心理臨床学会第34回秋季大会発表論文集.
2025年
7月
05日
土
真摯な本である。内容も構成も書きぶりも。
そして、なによりも行間から、著者自身を含めた本書に登場する在宅医たちの日々の臨床姿勢の真摯さがあふれ出てくるようである。
そして、通読して本書のタイトルでもある「関わりつづける」という言葉が、評者の私(福島)の専門である臨床心理学で言う「そこに居つづける」という言葉に限りなく近く、そしてより正確に響きつづけている気がした。
さらに、「訪問する」ことの大変さと尊さと。
私自身、若い頃に何例か長期的な訪問カウンセリングを担当したり、修士論文やその後の研究でも大学院の隣の研究室の仲間たちと宗教学のフィールドワークをしていた関係で、「訪問」することの心身への負担を十分に思い知っており、それを専門として数十年も続ける在宅医の真摯さには「かなわない」と、日頃思っているからでもある。
本書は著者自身も在宅医であるが、自身の実践には直接には全く言及せずに、26名の現役在宅医にインタビューした結果とその考察を基本にしている。
「あとがき」によれば、著者は大学時代に所属していたヨット部の大会で海難事故に遭い、数時間にわたって身一つで漂流し、たまたま運良く助かった経験もあって「自分ごととして死を意識」するようになったとともに「死に接近しすぎた経験は自分と世界の距離を感じることにもつながった」とのことである。
この経験による世界の感じ方二つが、おそらく本書にも滲みわたっている真摯さと客観性とを生んでいると思うのは、深読みしすぎであろうか?
その後筆者は地域医療に力を入れる病院で研修医生活を送り、さらに西伊豆の小さな漁村での診療、そして後期研修では緩和ケアや沖縄の離島での診療支援などを経て、並行して上智大学の実践宗教学研究科博士課程に進学し修了して、文学博士となっている。
本書はその博士論文を大幅に加筆・修正したものらしい。
その後、著者は現在は都内の在宅診療のクリニックの院長を務める傍ら、上智大学グリーフケア研究所の研究員、東京慈恵医科大学非常勤講師なども務めておられる。
本書の1~3章においては、「医師とは何か」から始まり、医療の歴史と「なぜ在宅医の死生観」に注目したのかがていねいに書かれている。それらは単なる医療の歴史ではなく、「いのち」や「死生観」、そして「ケアする専門家」というキーワードを中心にして、広く「前近代」から「近代社会」が成立するとともに「病院の世紀」が始まり、救急期医療としての古典的在宅医療は衰退していったとする。
そしてさらに、著者の豊富な社会学的な学識を生かして、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュなどの後期近代論の中でも、そこにポストモダンとレイトモダンという二つの層によって「死」のあり様が変化して行ったとするウォルターの議論を使いながら1970年代以降の日本の死と社会や医療のかかわりについて考察している。
上記のような「死」の変化は、端的に言えば、「死の私化」や「死の個人化」とも言われる現象であり、個人レベルで死にゆくプロセスを自己決定し、自分らしい死に方をとることが望ましいと考えられるようになるプロセスであるということである。
翻って、評者(福島)の専門である臨床心理学を顧みた場合、古代の呪術や近世までの宗教から心理療法の分離独立、ジャネ・P、シャルコーやフロイト、ユングによる深層心理学的心理療法の発見とその発展、軍隊と学校の近代化に伴う知能検査に代表される心理学的測定法の発展の歴史を整理することはできても、行動療法と認知療法の出現以降に関しては、それぞれの学派の伝統が独自に発展し続けていて、近代から現代という大きな歴史の中に位置づけて統合的に語ることがほとんどできていないことに改めて忸怩たる思いを抱いた。
著者は本書では全く触れられていないが、内科医学的知識、薬理学的知識など専門医としての知識と思考力は当然ながら備えておられるはずでありながらも、上記のような社会学的な学識を十分に我が物にしている点で、すでに「知の巨人」となりつつある様子がうかがわれる。現代の「ケア」を本気で語るには、このような理系・文系の枠にとらわれない知の巨人たることが必須なのかもしれないと痛感させられた。
さらにこの博識ぶりは、柳田国男と折口信夫に代表される日本の死生観にも触れ、折口の「まれびと」論による「近代人の孤独」を重視している点も、かび臭い書庫(失礼!)にとどまらない実践的な論となっている。
このブログは極めて私的な「私設カウンセリングオフィス」のブログなので、この際遠慮なく評者の自己開示もさせていただこう。学部時代は文学部日本文学科にいて、柳田民俗学の正当な流れをくむ教授や、近代日本文学研究の大家たちの授業を聴きながら、「それで今生きてる人間はどうなん?」という疑問をぬぐい切れず、大学院から臨床心理学に転向した。そんな私としては、折口民俗学が現代人の孤独感や死生観につながっているとは思わなかったし、誰も教えてくれなかった。ましてや当時うっすらと感じていた柳田民俗学への違和感(他の学生や先生方は、崇拝していたのに)は、「僕の頭が悪いんだ」としか感じられていなかった。
ついでながらさらに言えば、漱石や太宰の作中人物やご本人の生き方には、あまり共感できなかったが、土居健郎の「甘え」理論が登場するまでは、私の中では「日本文学科に居ながら、漱石と太宰に違和感を持ち続ける、勉強不足な僕」でしかなかった。(当時の僕には、あの自決事件とは別に三島由紀夫の文章の方が、潔くてとりあえず論理性があって好感が持てたし、森鴎外のエリス事件からの逃げっぷりにはあきれてはいたが、鴎外の文章や論争は好きだった)
挙句の果てにさまよい続けて、親鸞聖人(「歎異抄」ではなく、本物の「教行信証」の方)を卒論のテーマに選んだ21歳の頃の僕だった。
ものすごく脱線してしまいました。。。
さて、本書のメインディッシュはもちろん、4章以降の26名の医師へのインタビューとその分析・考察である。
インタビューに先立って著者は、その倫理的配慮の中で、著者自身の立場を明らかにし、「医師が医師について考察すること」のメリットと限界についても明らかにしている。そして、それについての可能な限りの配慮もされている点が、冒頭述べた「真摯な本」である一つであるし、それがかなり成功していると言っていいだろう。
そして具体的には「終末期における入院への迷い」「終末期における点滴の可否」「ACP(厚労省の命名では「人生会議」)における、意思決定モデルの危うさ」などを通じて、在宅医がご本人や家族と一緒に迷い、時に医学的合理性を少し脇においても、害の生じないレベルで点滴を実施したり、迷いやブレに付き添うという姿勢を「ともに迷い、探求する実践」として、重要視している様子が描き出される。
ここで何よりも大切にされているのは「共同意思決定」であるが、それを表面的なものとせずに患者や家族の非言語のメッセージまでとらえて、「みんなの前では言えない」ような気持ちは一対一で聴き取ったり、経過とともにその決定が揺らいだりもするのを厭わないという、きめ細やかさの大切さまでをも含めて論じられている。
きわめて繊細であり、私の専門の臨床心理学においても、この共同意思決定という言葉はやっと市民権を得始めたばかりであって「どのようなカウンセリングをしていきたいか」に関しては、まだまだ繊細な意思決定プロセスを経ていない場合がほとんどであると改めて反省させられた。
さて、このようなどこまでも真摯な終末期在宅医療の実践に関して、「こんなに真摯に実践を積み重ねていて、バーンアウトしないのだろうか?」という疑問が湧いてくる。
実際に、終章で著者が触れているように、本書が「規範の提示」つまり達成すべきモデルの提示と受け止められたり、「このような医師はどうしたら養成できるのか」という質問をもらうことも少なくないという。この点に関しては、この書評の最後の部分で「方法論的課題」としても触れたいが、その前に評者としてとても納得のいく、本書のクライマックスというべき記述がある。
それは、第6章において繰り返し述べられている「めぐみのような相互承認」や「まるで恩寵のようにおとずれる感覚」についてである。
さらに少し長くなるが引用すると
*********
意思決定という文脈で言うならば、それは自律した個人の意思を合理的に調停して「決める」のではなく、それぞれが共同性や孤独を、そして受動性を引き受けつつ、ともにより良い道を探ってきた末に物事が「決まる」経験でもある。それは医療者も患者もそれぞれが唯一無二の道のりを懸命に歩んだうえでの必然ではあるが、目的でもなく結果でもなく、体感としては偶然や奇跡のように感じられるものである。(下線は評者による)(p265)
*********
在宅医たちは、患者や周囲の人々との関係の中に身を投じ、偶発性に身を任せながらもなんとか医学的な合理性から手を離さないために、さまざまな水準で自分を変え、時には自分の孤独に向き合い、苦悩や生活史も含めて振り返りながら関係の中に足場をつくり、そこにとどまろうとする。いのちの危機にかかわりながら他者を理解しようとすることで自己を超えた世界を自覚し、そのことで死生観を深め、いのちの尊さを自覚する。そしてそのことが「死者を忘れない」姿勢、そして死後もなおその人とのかかわりから学んだことを反芻し、次の患者に生かしていこうとする姿勢へとつながってゆく。これは、患者のいのちに向き合い、その語りを聞く、すなわち患者からの呼びかけに対して応答しつづけるという形で示される、今までとは異なる形で表れている責任の感覚である。(p277-278)
*********
本書のこのクライマックスを読めば、もう「バーンアウトは?」などの心配は雲散霧消する。
何を隠そう評者も若い頃から「特異体質」などと呼ばれ、夜遅くや土日にも臨床をやっていた身としては、とてもよくわかるのだ。
この恩寵がたまに得られれば疲れは吹き飛び、患者以外の人ともこれを感じられるという般化が生じるのだ!
(評者は、もちろん子育て中は夜間の臨床は制限し、土日のどちらかは家事育児に専念した。けれどもそれが空けた今となっては、また再び大学勤務の傍ら土日と平日朝晩の臨床で、この「恩寵」に浴しているが、他のスタッフにそれを求めてはいない。)
この恩寵は著者の言うように「孤独と他者性を自覚して実存的な問いを深めてゆく」(p259)「偶発的に「人と人としての」つながりの感覚を感じられる経験」(p262)というものであるので、まれにしか訪れない。だからこそ、中毒性(正しくは依存性)のあるもので、やめることができない。
このような恩寵を求めてしまう人間は、どんな人間なのかという問いはある。例えば、その昔、河合隼雄は心理臨床家についてではあるが「こんな大変な仕事をする人間は、きっと前世で極悪人やったんやろうと思う」と発言されていた。
本書の著者はどうかわからないが、評者の私は、おそらくそうだったに違いない。
けれども、このような限定的な「恩寵」を味わう感覚こそ現代のスピリチュアリティの中核だとも思う。あるいは、少し控えめに言って「現代のヒューマンサービスに携わる人間の専門的なスピリチュアリティ」と言っていいだろう。
そして、この恩寵こそが「お客様は神様」と言われてしまう現代日本で、ヒューマンサービスやケアの仕事にかかわりながらも、自己疎外や学習性無力感、あるいはその反対の拝金主義や神秘主義に陥らずに、実践を積み重ねていく唯一の原動力となるのだと思う。
以前評者(福島,2017)は「(カウンセラーの)「セルフケア」と「自己点検」は,基本的には「すべて臨床活動(訓練も含む)のなかでされるべき」と書いたりしてきた。つまりカウンセラーの臨床的なストレスは、十分な内省を経たのちに「クライエントと共有する」ことで、ストレスではなく前向きな取り組みとして解消されるとした。(ブログ「カウンセラーのセルフケアと自己点検」も参照)
このような「セルフケア」と「自己点検」という観点は、言葉そのものは世俗的なものではあるが、その本質はやはり「恩寵」をどう感じられるかだと思うのだ。
もっと大きく言えば、このような恩寵の感じ方には、オウム真理教事件から東日本大震災を経て、コロナ禍でダメ押しされた感のある「怪しいスピリチュアリスト」とはまったく違う、本当の意味でのスピリチュアリティの萌芽があるのではないだろうか?
以前のブログ「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)においても紹介したが、著者の大田が
「オウム真理教のようなカルトは、たまたま出現したのでも日本だからこそ拡大成長したのでもない。この問題はまさに近代というシステムが「死」の問題に対して答えを出せていないがゆえのことであり、その意味でこれからも同様のカルトが出現する可能性がある」としている記述を思い出す(下線は引用者による)。
この「死」の問題に、評者の私は「心理臨床の中でどう向き合ったらいいか」をいつも自問自答しながらいた。しかし、本書を読んで、ここに大きなヒントがあると痛感した。そして、やはり近いところにいるという実感も強めた。
現代のスピリチュアリティは、このようなコツコツと地味な実践を通じてしか立ち現れないのだ。
最後に、無理を承知で、あるいは評者の不勉強の可能性を顧みずに、方法論的な課題を記しておきたい。
それは、サンプリングの問題である。
このようなテーマのインタビュー調査は、心理学においてもサンプリングは「縁故法」となることが多いのは同様である。しかしながら心理学のインタビュー調査であれば、理論的サンプリングとして「対極例」を探すのが通例となる。人類学や民俗学でそのようなサンプリングが行われるのは見聞きしたことはないが、可能ならばそうすることで、より現状や実態に近い描写が可能になると思う。
つまりこの調査では、「在宅医としてバーンアウトもしくは他科に転向した例」や「関わりつづけない医療」を実践していると思われる例などとなろうか。
そうでない場合は、このような研究は、臨床心理学では「エキスパート研究」として、理想の実践者が、どのような変遷をたどって現在のような実践に至ったかを、詳しく考察するものとなる。
歴史の浅い分野や論争中の実践においては、対極例を平等に描き出す研究よりも、この「エキスパート研究」の方が、実践的な指針と課題を浮き彫りにするという意味でも価値が高い場合もある。
この辺りの位置づけや記述があるとさらに良かったと思う。
○文献
福島哲夫(2017) カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?臨床心理学第 17 巻第 1 号
大田俊寛(2011)『オウム真理教の精神史』春秋社
2025年
6月
09日
月
(本年6月末に久々の単著「プロカウンセラーの人を見る技術」が出版されます。ここでは、その中の1節をにさらに加筆したものを紹介いたします。以下のリンクから立ち読み・予約可能です
内閣府による令和4年の調査によれば、孤独感が「しばしばある・常にある」と回答した人の割合は4.9%、「時々ある」が15.8%、「たまにある」が19.6%でした。これらを合計すると40%を超えている計算になります。そして令和5年の調査と比較しても有意に増加していることが確かめられています。
この調査はインターネットによる2万人を対象としたものですが、本当に孤立している人はこのような調査に答えないかもしれないという意味では、実際はさらに高い割合になっているかもしれません。
さらに別の研究として、岩村暢子氏の『ぼっちな食卓』(中央公論新社、2023年)が注目に値します。氏の20年にわたる追跡調査によると、子どもが小学校・中学校という早い時期から家族そろっての食事にこだわらず、各自が好きなときに好きなものを食べるというスタイルになっていた家庭ほど、10年後、20年後に引きこもりや不登校、無断外泊が多くなる確率が高いとしています。
また、こうした家庭の特徴として「貧困」や「親の多忙さ」「複雑な家庭事情」などは認められず、その多くが「リクエスト食」と言われる子どもが小さいときからリクエストに応じて好きなものだけ食べさせた家庭や、「セルフ食」と言われる自分でコンビニで買わせたり、冷蔵庫の中の好きなものを「レンジでチン」して食べさせた家庭だったとしています。
このように、一見「自由と主体性」を早くから保証した家庭生活の方が、子育て環境としてはかえって望ましいものではなかったのです。
これは一体どういうことでしょうか。
さらにもう一つ興味深い指摘として、石田光規氏の『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマ―新書、2022年)があります。本書の中で石田氏は、「人それぞれ」という個人化が進んだ社会において、近隣や勤め先、親戚などの「余計なおせっかい」がなくなり、人が自由を満喫できるようになった反面、対人関係でトラブルになってもそれを修復するシステムが失われたために、若者の中で「友人であっても気を遣って、なかなか深い話ができない」人が年々増加して、結果的に「つながり」が不安定になっていると指摘しています。そして、この「不安定なつながり」を何とかしようとして、気遣いや「感謝」「嬉しい」といったポジティブな感情表現があるしっかりとした「コミュニケーション」を大切にするけれども、結果的には「ふれあい回避」になり、孤独感が高まっている様子を様々なデータから考察しています。
こうした状況を大きな流れの中で考えると、私たちはこの100年ほど、「いかに家族や共同体(村社会など)から解放されて自由になるか」を求めて生きてきたと言えます。故郷から離れて都会に移り住むこと。親の干渉を受けずに結婚相手を決めること。そして家ではそれぞれの部屋を確保して、干渉しすぎないで生活すること。さらにテレビや電話に代表される通信機器は、共有せずに個々人が所有して使うことなど。望むと望まないにかかわらず、私たちは「個別化」の急速な流れに乗っています。
そして家族そのものも、大家族から核家族へ、そして単身家庭の増加へと至ります。その流れの中で食事も、大家族が一室で同時に食べる形から、家族はいてもバラバラな食事に、一人暮らしの人は当然ながら「個食」になりました。このような個別化によって、私たちは自由や効率性などを手に入れてきたことは間違いないでしょう。
けれども、この個別化が「孤独化」をもたらし、さらに個食というスタイルは、少なくとも子どもたちには悪い影響を与えることがわかっています。
心理療法も「個」を重んじるものから「温かさ」と「つながり」を重んじるものに
このような流れを受けて、現代心理療法は「内省を通じて個を確立する」というものから「温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復を大切にする」というものへと変化しつつあります。
内省を通じて個を確立するためには、カウンセラーからの余分なアドバイスや肯定は要りませんし、距離もやや遠めがいいということが分かります。けれども温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復をするならば、カウンセラーのできるだけ誠意のあるアドバイスや肯定、近い心理的距離からの介入が必要となってくるわけです。
これは、フロイトもユングも(おそらく森田療法の森田正馬や、内観療法の吉本伊信も)大家族の中で日々暮らしていたことを考えても想像できるところです。そして、ユングが晩年は石ノ塔にこもって一人で生活していたということも、時代の先取りともあるいは、東洋的ともいえるかもしれません。この点に関しては、近い機会にまた別のブログで書いてみたいと思います。
子育てから効率性を排除する
プロカウンセラーとしての私は、時としてこの効率化とコスパ重視の社会に背を向けて、「効率性を排除しましょう」とアドバイスせざるを得ないことがあります。
それは思春期の子どもが、反抗的な態度で非行傾向を示して、夜はなかなか家に帰ってこず、繁華街の路上で長時間を過ごしているといった行動が明らかになったときです。この子たちの言動を細かく見聞きすると、明らかに親の愛情不足を訴えていて、そこから来る孤独感を何とかしようとして非行化していることがわかるのです。
そういうとき、私は親御さんに「できるだけ手間をかけましょう。干渉したりコントロールするのではなく、手間暇をかけるのです」「もし学校のことや勉強のこと、お金のことやその他のことで『どうするのが正解か』迷ったら、『手間暇のかかる方』を選んでください。送り迎えでも、食事でも、塾選びでも何でもかまいません。それが今、愛情を伝える唯一の方法です」と伝えます。
晩ご飯をどうするか迷ったときには、たとえ子どもがコンビニ食を希望しても、わざわざ手作りのご飯を作る方がいいのです。
このアドバイスを親御さんが実践していくと、子どもの非行や外泊はだんだんと減っていきます。もちろん、過干渉で問題が生じていると思われる親御さんには「もうこの年齢なので手放しましょう」(本書の別の章参照)というアドバイスするのですが。
今後も、この個別化の流れはとどめることは難しいかもしれません。けれども、そのような流れの中で、私たちはいかに「孤立と孤独」を避けるシステムや社会を作っていけるのかが問われていると言えるでしょう。
ただし、これ以上子育てに手間をかけろなんて言うと、さらに少子化は進んでしまうかもしれません。その意味では「塾や勉強に手間をかけるのではなく、大人も子どもと一緒に遊ぶ時間を増やしましょう」という提言をしたいと思っています。
以上
2025年
5月
05日
月
私たち現代人は「着ぐるみ」的な生き方を強いられていると言えます。
「着ぐるみ的な生き方」とは、現代の若者に代表される傾向として、「ソフトで人当たりのいい」、「平和主義者」として世の中から逸脱せず、「個性的」と言われるような悪目立ちはせず、「いい人」としての生き方を強いられている生き方です。
それはまるでゆるキャラの着ぐるみを着ているような状態で、本当の自分とは別の姿です。そしてその着ぐるみの中はじつはとても暑かったり、暗かったりで、孤独でネガティブになりやすい状態です。着ぐるみはしゃべることを許されず、中でひっそりとつぶやく言葉は、驚くほどネガティブだったりするけれど、それを誰にも言えないので、SNSなどでこっそりつぶやくしかないのです。
そして、この着ぐるみはいろいろと身に着けているものは多いのに(というかだからこそ)、案外不安定で余裕がありません。着ぐるみ同士でうっかり近づきすぎて、ハグしたり支えあおうとしたりすると共倒れにもなりかねません。なので、少し離れたところから両手を精一杯振るしかないのです。つまり、あまり「心から共感」したり「コミット」したりするのは、とても危険なことなのです。そして「みんな人それぞれだし・・・」と思っているのです。このことがさらに着ぐるみさんたちの孤独を深めているのかもしれません。また、この着ぐるみの中で誰にも見えない「傷」を抱えて、それがずっと癒されないままになって痛み続けていることも多いのです。
カウンセラーとしての私は、このような現代人が着させられている(着るしかない)着ぐるみを、まずは着ぐるみそのものとして理解して支援し、さらにその中に入っているのはどのような人なのかを推測しながら、共感的に支援するという営みを続けています。
世の中では実際に近年、着ぐるみやゆるキャラが全国的にとても人気を博していますが、私自身はいつも「中の人」のことが気になってしまいます。とりあえずその場では人気者だったり喜ばれていますが、それはあくまでも「着ぐるみ」が喜ばれているだけです。そして、そのことは着ぐるみを着ている当人が一番強く感じていることなのです。
この「中の人」は、自分でどんな着ぐるみ(時にゆるキャラ)を着ているかはわかっていても、中の人として本当は何を感じているのか、何に苦しんでいるのか、そしてなぜこのような状態になっているのかは、よくわかっていない場合が多いのです。なので、カウンセラーとしては、ご本人の言葉と振る舞いをたよりに、ご本人も気づいていなかった「中の人」を理解して、できるだけ無理なくその人らしさが生かせる形で支援しようとしています。
こういったいわば「できるだけ温かくて共感的な理解」こそが「カウンセラーの分析術」だとも言えます。なぜならそのような「温かくて共感的な分析」こそが、実際の支援としても有効だからなのです。つまり、「温かくて共感的な分析」を通じて、上記の「着ぐるみ」が、だんだんと薄くなって、被り物だけでも外せたり、全身がせいぜい透過性のいい(ゴアテックスの)レインスーツくらいになっていけるのです。
2025年
1月
03日
金
大学が冬休み中ですので、久しぶりにブログを書きます。
今回は、書評です。
まず、一読しての感想は「自由な人の書いた自由な本だ!」でした。
そしてサブタイトルに「新人間学」とあるように、徹底して「人間的」だということです。
クライエントとの面接室外での交流、セラピストの驚くような自己開示等々。
時には増井先生ご所有のヨットにもクライエントを乗せ、バイジーたちはバリ島の増井先生の別荘で過ごした思い出を語る。
バイジーたちは毎回の増井邸でのSVの際、妻の直子さんによる送迎とお茶とお菓子のもてなしを(おそらく)必ず受け、帰りの直子さん運転の車の中では、様々な話題が弾む。。。
これらの記述を読み、まず思い出したのが1980年代頃の日本の心理臨床シーンである。
当時、大学院生だった私(評者)は第一線のセラピストたちの集まる懇親会で、先生方が「いやー我が家に(Clの)男の子を預かるのは、家に娘がいるとちょっと心配やなー」等々と語り合っていたのを聞き、「はー、そういうもんなんだな。。。」と多少の違和感とともに受け止めていた。
その席では国分康孝先生(1930年生まれ)、東山紘久先生(1942年生まれ)が特に強く同意しておられたのを記憶している。またその場にはおられなかったが河合隼雄先生(1928年生まれ)は、その名著「カウンセリングの実際問題」に不登校の少年を自宅にしばらく預かっていたことがあると書かれている。かように河合先生の世代とそれに続く先達たちは、クライエントとの枠外での接触について積極的だった。
この本の著者の増井氏は河合先生より20歳近く年下(1945年生まれ)ではあるが、その伝統をしっかりと受け継いでおられるように思う。思えば増井氏よりも7歳年上(1938年生まれ)の評者の最初の師匠、小川捷之先生も若い時、クライエントの男の子とアパートの隣同士で暮らして、毎朝ランニング等をしていたと語っていた。(その男子は、その後、小川先生のいる横浜国立大学の学生となり、ゼミ生となっていた)
さらにその3歳年上の村瀬嘉代子先生(1935年生まれ)は、クライエントを自宅の夕食に呼ぶことがしばしばあったと論文にも書かれている。
以上のように、1980年代までは当然のように行われていた「Clとの枠外での交流」は、次第に影を潜めて、少なくとも公の場では語られなくなった。
その意味で、増井氏の本書は「古き伝統」をしっかりと残してくれている貴重な資料とも言える。
それにしても、である。
今の時代に改めてこのような記述を読むと、セラピーの構造に関しては、ある程度の柔軟性を持った方がよいと考えて実践している私(評者)から見ても、「大丈夫なのだろうか?」と思わざるを得ない。
現在の私は、クライエントと面接室外で会うことはないし、バイジーさんたちとも学会や研修会以外ではほとんど接触しない。
ましてやヨットも別荘も持たないので、招きようもない。
自宅でのホームパーティも学部学生以外には呼ばない。
(やはり日本は貧しくなっていっているのかもしれない・・・。)
今の私は「枠外の」関係なしで、いかに人間的に触れ合い、自由な関係を持てるかを模索しているつもりである。
けれども、インターネットが普及し、SNSが盛んとなり、カウンセリグオフィスではそのホームページにセラピストの情報を載せるのが必須となり、さらにはセラピストの名前を検索すれば、様々な情報が入る現代となって、この問題は別の形で熟考に値するようになっても来ている。
クライエントの方々は、あらかじめ種々の方法でセラピスト情報を手にすることができ、それがいる種の安全性を確保することにもつながる反面、セラピーの経過中でのそれらの情報は「雑音」ともなって、クライエントを苦しめることにもつながる。
本書にはそのようなデジタルツールにおける交流や一方的な曝露については書かれていないが、「枠外でクライエントと接触して、関係性が危うくなることはないのだろうか?」という疑問を持ちながら読み進めたところ、P59に以下のような記述が1回だけされていた。
「本書で提案する方法の適応性は各種の神経症レベルまでで、ボーダーラインのケースや統合失調症には別のアプローチを考えています」と。
たしかに、その範囲に限定すれば、増井氏の臨床的提案はある程度の妥当性があるだろう。
けれども、評者をはじめ臨床心理を専門とする読者が一番読みたいのは、その例外をどのように見極め、どのようにマネージするかという点ではないだろうか。
さらには、神経症レベルともボーダーラインレベルとも言えるトラウマ関連障害をもつクライエントさんに、どう人間的に触れ合うかを学びたいと思っているのではないだろうか。
そのような問わず語りはさておいて、第4章に述べられている以下のような15の原則は、とても示唆深い。
1.治療者が一人の人間に返ることー治療者が面接の場で「自分」に立ち返ること
2.患者さんを肯定的に見ることができる基本的な考え方ー症状能力について
3.治療場面構造の調整(評者注:自由で柔らかな治療構造)
4.面接初期に確認した方が良い要件(評者注:先入見にとらわれない初回面接で「よくなることのイメージの点検」や「趣味や時を忘れるようなことや物の確認」
5.分かりやすく説明する
6.やりたいこと見つけー治療学は休養学です
7.イメージで聴くこと
8.良くなっているところを顕微鏡で見るように拡大して見る
9.手のつけやすいところから手をつける
10. 性格を変えようとせず、環境を変えてみるー架け橋としての治療者
11. 問題を容れ物に入れてどこかに置いておくこと、距離を置いて自分を眺めること
12. 自殺予防
13. 理論を信じず、その場の自分の体験を信じよう
14. 直感を信じること
15. ドタキャンあり
これらは、著者の名人芸的な事例の数々とともに紹介されている。すべて賛成できるものであり、評者も自分なりに実践しているもの(のつもり)である。
そして、ここには著者の師匠格である神田橋先生の影響が色濃く認められる。
評者自身も20代の終わりから30代の前半にかけて、神田橋氏先生の事例検討セミナーに毎月参加して、それまでの理論重視の教えからずいぶんと解放された気がした経験がある。
けれども、やはり先に述べたような面接室外を含む自由な関りを、現実適応力は高いけれどもボーダーライン的な要素を持つクライエントやトラウマに苦しみながらも、現実はしっかりと保って生きているクライエントにも持つのか等々、疑問は尽きない。
上記の1~15の原則については、本書の後半でのバイジーさんたちの記述が、増井氏の新人間学とされる臨床的な姿勢について、その具体的なコツをかなり補足してくれていて、伝わりやすいものになっている。
言い方を変えれば、増井氏の(現代日本においては)自由過ぎる姿勢を、もう少し現代風に解題してくれているとも言える。
なかでも浅野みどり氏の論考は、セラピストの自己開示やノンバーバルな部分の大切さ、そして何より枠外でのクライエントとの接触について、「非性的な多重関係」として丁寧に論じられている。そして、クライエントとの「個人的な関係」について、抑制のきいた文章で慎重に論じられている点で、増井氏の論考を補足して余りあるとすら言える。
本書に見られる、増井氏の論述とバイジーさんたちの論述の自由度の違いとも言える温度差、そして筆者と評者との姿勢の違いは一言で言ってしまえば、「時代の違い」から来るものが多いと言えるだろう。
けれども、「時代が違うから」と一言で済ますのではなく、その中から引き継ぐべきものと変えていくべきものをしっかり弁別する必要がある。
枠外での交流は控えるにしても、いかにClと人間的な交流を保ち続けるか、そしてそれでありながら、その限界をもわきまえて「出来ることと出来ないこと」のバランス、理想主義と現実主義のバランス、専門性と人間性(職業的関係と人間的関係)のバランス等々、種々のバランスを最適に保つかが問われているのだと、あらためて意識させられる良書であった。
以上
2024年
8月
20日
火
第12章 統合的心理療法が最も役立つ複雑性PTSDの治療―トラウマのメガネと統合的技法が最大限生かされる時
1.はじめに
この章では、統合的心理療法の応用編として、トラウマインフォームドケアの考えに基づく複雑性PTSDの統合的治療について、解説します。
近年、トラウマインフォームドケアと、複雑性PTSDの治療が注目されてきています。
このトラウマインフォームドケア(TIC)とは、支援者たちがトラウマに関する知識や対応を身につけ、対象者の人たちに「トラウマがあるかもしれない」という観点をもって対応する支援の枠組みです。このTICという考え方は、2000年代以降、北米を中心に広がりを見せ、近年日本においても、医療、福祉、司法、教育の領域にも適応されるようになってきています(大阪教育大学,2023)。
この考え方は「トラウマのメガネ」とも呼ばれていて、「この人(子ども)の、一見理不尽な言動や、過剰な反応の裏にはトラウマがあるのかもしれないという目で見てみる」ということの意義が唱えられています。「色眼鏡で見る」と言えば「物事を歪んだ(偏った)見方から見る」という否定的な意味で使われますが、この「トラウマのメガネ」は、これをかけて初めて問題の本質が見え、正しい対応が見えてくるという意味で、大切な発想となっています。
このような考え方が出てきた背景の一つには、1990年代後半から行われるようになった小児期逆境体験(Adverse Child Experiences: ACE)研究の蓄積があります。これらの研究で、関係者が考える以上に多くの人が虐待や家族機能不全といった逆境体験をもっているだけではなく、さらにその後の逆境体験を重ねれば重ねるほど行動面、心理面、健康面のリスクが高まることが明らかにされました。逆境体験がすべてトラウマになるとは限りませんが、トラウマを理解して対応していくことの必要性が認識されるようになりました(大阪教育大学,2023)。
また複雑性PTSD(Complex PTSD:以下CPTSD)は、ハーマン(Herman,1992)によって提唱されて以来、診断概念としては正式に認められないままに今世紀に至っていましたが、ICD-11(世界保健機構国際疾病分類第11版)により、2022年にWHOにおいて2019年採択2022年発効という形で正式に認められました。これはこれまで米国精神医学会の診断基準DSM-5でははっきりと定義されなかった長期反復性のトラウマのサバイバーに関して、複雑性PTED(CPTSD)が、公式診断とされた画期的な出来事と言っていいでしょう。
振り返ってみれば、私たち心理職は、すでに長い間「トラウマ」や「虐待」そして「機能不全家族」などの概念には親しんできたものの、それらに対して系統的で体系的なアセスメントやセラピーの訓練は受けてきていませんでした。けれども、今思うと「あのケースもそうだった」と強く思わされる事例が多く、これは「発達障害」が初めて本格的に紹介された頃の感覚に近いものがあります。
2.複雑性PTSD(ⅭPTSD)とは
ⅭPTSDは、ハーマンによって1992年に提唱されたもので、定義としては以下のようになります。「極度に脅威的ないしは恐怖となる性質の出来事で、最も多くは、逃れることが困難ないしは不可能で、長期間あるいは繰り返された出来事に曝露したあとに生じる障害」(World Health Organization,2018)。そして、このような出来事の例として、拷問、奴隷、虐殺、長期的な家庭内暴力、繰り返される子ども時代の性的もしくは身体的虐待などがあげられています。
そして以下のような症状を伴っているとされました。
①再体験症状:re-experiencing;再体験
鮮明な侵入的記憶で、フラッシュバックや悪夢の形による、トラウマ的な出来事が今起きているように感じる再体験
②回避症状:avoidance of traumatic reminders;回避
出来事に関する思考や記憶の回避、あるいは出来事を想起させるような活動、状況、人物の回避
③脅威の感覚(過度の警戒心):persistent sense of current threat that is manifested by exaggerated startle and hypervigilance;過覚醒
今も脅威が高まっているような持続的で、過度な警戒心ないしは不意の物音などに対する過剰な驚愕反応
④感情制御困難:affective dysregulation;感情の調整不全
情動反応性亢進(気持ちが傷つきやすいなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および陽性の感情の体験困難
⑤否定的自己概念:negative self-concept;否定的な自己概念
自己の矮小感、敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広範な恥、自責の感覚
⑥対人関係の障害:disturbances in relationships;関係性の障害
他者に親近感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ
以上のうち①~③はPTSD(心的外傷性ストレス後症候群)と同じです。そして④~⑥は自己組織化の障害と呼ばれるものです。この自己組織化の障害とは、一言で言えば「自分を保っていることがとても難しい」状態だと言えます。
けれども臨床的には境界性パーソナリティ障害(BPD)との区別が難しいともされています。BPDは上記④~⑥の自己組織化の障害に加えて、「見捨てられを防ぐための極端なしがみつき」「理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係」「とても不安定な自己感覚・自己イメージ」が特徴とされます。また、自殺企図や自殺行為がBPDでは高く(約50%)、CPTSDではPTSDと同様に15%前後とされています。
表10-1.境界性パーソナリティ障害(BPD)とCPTSDとの鑑別(飛鳥井,2021をもとに筆者が作成)
自己組織化の障害(DSO) |
BPDとCPTSD |
主な違い |
自己概念の障害 |
BPD |
アップダウンする不安定な自己感覚 |
CPTSD |
常に否定的な自己感覚を反映 |
|
対人関係の障害
|
BPD |
急に変化しやすい対人交流パターン(ex.理想化とこきおろし) |
CPTSD |
対人関係の持続的回避傾向(親密な関係を避けてしまう) |
|
その他 |
BPD |
操作性、衝動性、見捨てられ不安、自殺企図や自傷行為の反復などの特徴 |
CPTSD |
自殺企図や自傷行為が出現することもあるが、病態の中心ではない。 トラウマ特異的なPTSD症状の存在がある。(ex.様々な身体症状や自律神経の不調)
|
また、岡野(2021)は、CPTSDの治療の際には、従来の精神分析的な治療を、以下のように変更する必要があるとしている。
表10-2.CPTSD治療のための精神分析治療の変更点(岡野,2021をもとに筆者が作成)
主な変更項目 |
内容 |
①治療関係の安全性と癒しの役割
|
治療場面が傷つき体験とならないよう、治療構造の「柔構造」的なあり方が必要 |
②トラウマ体験に対する(加害者側に立つと誤解されない)真の中立性 |
必要に応じてThの態度表明や感情表現をすることが真の中立性を保つうえで重要 |
③愛着トラウマという視点
|
治療者は過去のトラウマの想起やその治療的な扱いを優先的な治療目標とする姿勢から離れる。まずは安全な治療関係を形成することを第一目標とすべき |
④解離の概念の重視
|
解離・転換症状を扱うことを回避せず、症状や主張の背後の意味を読み、受け取っていく |
⑤関係性や逆転移の視点の重視
|
治療者側の救済願望により、治療関係が新たなストレス体験とならないよう、来談者への気持ちに常に適度なブレーキを踏み続けるような治療関係が望ましい |
⑥倫理原則の遵守 |
トラウマ体験により治療者に対しても加害的イメージを投影する可能性が高いため、最大の配慮を払う |
これらは、世界的な趨勢でもあり、主な現代心理療法や20世紀末から21世紀にかけて生まれた新しい心理療法は、全てこの傾向を備えているとも言えます。また、統合的心理療法もこの方向性にあることは疑いようがなく、上記の姿勢に「複数の異なった治療理論や治療技法を駆使する」を加えれば、そのまま統合的心理療法になると言っても過言ではないでしょう。
また、これまでの筆者の経験からも、とくにCPTSDのClには、単一技法はあまり効果的ではなく、「柔構造」の中で、ThがClの味方であるという「態度表明」や「感情表現」を通じて、決して冷たい中立性ではなく、加害者に怒りも感じる道義的な人間としての安心・安全感を持ってもらう必要があります。そしてまずはセルフケアやストレスコーピングの具体策について、時に心理教育もしながら、さらに症状を乗り越えていくためのワークを導入する必要もあります。時には家族に会う必要もあり、場合によっては家族や加害者とその関係者へのメールなどを作成するサポートも必要と考えます。
以下に、いくつかの事例とともに、このようなCPTSDへの統合的心理療法のあり方を検討していきたいと思います。
(以下、省略)表10-4参照
2025年
7月
05日
土
真摯な本である。内容も構成も書きぶりも。
そして、なによりも行間から、著者自身を含めた本書に登場する在宅医たちの日々の臨床姿勢の真摯さがあふれ出てくるようである。
そして、通読して本書のタイトルでもある「関わりつづける」という言葉が、評者の私(福島)の専門である臨床心理学で言う「そこに居つづける」という言葉に限りなく近く、そしてより正確に響きつづけている気がした。
さらに、「訪問する」ことの大変さと尊さと。
私自身、若い頃に何例か長期的な訪問カウンセリングを担当したり、修士論文やその後の研究でも大学院の隣の研究室の仲間たちと宗教学のフィールドワークをしていた関係で、「訪問」することの心身への負担を十分に思い知っており、それを専門として数十年も続ける在宅医の真摯さには「かなわない」と、日頃思っているからでもある。
本書は著者自身も在宅医であるが、自身の実践には直接には全く言及せずに、26名の現役在宅医にインタビューした結果とその考察を基本にしている。
「あとがき」によれば、著者は大学時代に所属していたヨット部の大会で海難事故に遭い、数時間にわたって身一つで漂流し、たまたま運良く助かった経験もあって「自分ごととして死を意識」するようになったとともに「死に接近しすぎた経験は自分と世界の距離を感じることにもつながった」とのことである。
この経験による世界の感じ方二つが、おそらく本書にも滲みわたっている真摯さと客観性とを生んでいると思うのは、深読みしすぎであろうか?
その後筆者は地域医療に力を入れる病院で研修医生活を送り、さらに西伊豆の小さな漁村での診療、そして後期研修では緩和ケアや沖縄の離島での診療支援などを経て、並行して上智大学の実践宗教学研究科博士課程に進学し修了して、文学博士となっている。
本書はその博士論文を大幅に加筆・修正したものらしい。
その後、著者は現在は都内の在宅診療のクリニックの院長を務める傍ら、上智大学グリーフケア研究所の研究員、東京慈恵医科大学非常勤講師なども務めておられる。
本書の1~3章においては、「医師とは何か」から始まり、医療の歴史と「なぜ在宅医の死生観」に注目したのかがていねいに書かれている。それらは単なる医療の歴史ではなく、「いのち」や「死生観」、そして「ケアする専門家」というキーワードを中心にして、広く「前近代」から「近代社会」が成立するとともに「病院の世紀」が始まり、救急期医療としての古典的在宅医療は衰退していったとする。
そしてさらに、著者の豊富な社会学的な学識を生かして、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュなどの後期近代論の中でも、そこにポストモダンとレイトモダンという二つの層によって「死」のあり様が変化して行ったとするウォルターの議論を使いながら1970年代以降の日本の死と社会や医療のかかわりについて考察している。
上記のような「死」の変化は、端的に言えば、「死の私化」や「死の個人化」とも言われる現象であり、個人レベルで死にゆくプロセスを自己決定し、自分らしい死に方をとることが望ましいと考えられるようになるプロセスであるということである。
翻って、評者(福島)の専門である臨床心理学を顧みた場合、古代の呪術や近世までの宗教から心理療法の分離独立、ジャネ・P、シャルコーやフロイト、ユングによる深層心理学的心理療法の発見とその発展、軍隊と学校の近代化に伴う知能検査に代表される心理学的測定法の発展の歴史を整理することはできても、行動療法と認知療法の出現以降に関しては、それぞれの学派の伝統が独自に発展し続けていて、近代から現代という大きな歴史の中に位置づけて統合的に語ることがほとんどできていないことに改めて忸怩たる思いを抱いた。
著者は本書では全く触れられていないが、内科医学的知識、薬理学的知識など専門医としての知識と思考力は当然ながら備えておられるはずでありながらも、上記のような社会学的な学識を十分に我が物にしている点で、すでに「知の巨人」となりつつある様子がうかがわれる。現代の「ケア」を本気で語るには、このような理系・文系の枠にとらわれない知の巨人たることが必須なのかもしれないと痛感させられた。
さらにこの博識ぶりは、柳田国男と折口信夫に代表される日本の死生観にも触れ、折口の「まれびと」論による「近代人の孤独」を重視している点も、かび臭い書庫(失礼!)にとどまらない実践的な論となっている。
このブログは極めて私的な「私設カウンセリングオフィス」のブログなので、この際遠慮なく評者の自己開示もさせていただこう。学部時代は文学部日本文学科にいて、柳田民俗学の正当な流れをくむ教授や、近代日本文学研究の大家たちの授業を聴きながら、「それで今生きてる人間はどうなん?」という疑問をぬぐい切れず、大学院から臨床心理学に転向した。そんな私としては、折口民俗学が現代人の孤独感や死生観につながっているとは思わなかったし、誰も教えてくれなかった。ましてや当時うっすらと感じていた柳田民俗学への違和感(他の学生や先生方は、崇拝していたのに)は、「僕の頭が悪いんだ」としか感じられていなかった。
ついでながらさらに言えば、漱石や太宰の作中人物やご本人の生き方には、あまり共感できなかったが、土居健郎の「甘え」理論が登場するまでは、私の中では「日本文学科に居ながら、漱石と太宰に違和感を持ち続ける、勉強不足な僕」でしかなかった。(当時の僕には、あの自決事件とは別に三島由紀夫の文章の方が、潔くてとりあえず論理性があって好感が持てたし、森鴎外のエリス事件からの逃げっぷりにはあきれてはいたが、鴎外の文章や論争は好きだった)
挙句の果てにさまよい続けて、親鸞聖人(「歎異抄」ではなく、本物の「教行信証」の方)を卒論のテーマに選んだ21歳の頃の僕だった。
ものすごく脱線してしまいました。。。
さて、本書のメインディッシュはもちろん、4章以降の26名の医師へのインタビューとその分析・考察である。
インタビューに先立って著者は、その倫理的配慮の中で、著者自身の立場を明らかにし、「医師が医師について考察すること」のメリットと限界についても明らかにしている。そして、それについての可能な限りの配慮もされている点が、冒頭述べた「真摯な本」である一つであるし、それがかなり成功していると言っていいだろう。
そして具体的には「終末期における入院への迷い」「終末期における点滴の可否」「ACP(厚労省の命名では「人生会議」)における、意思決定モデルの危うさ」などを通じて、在宅医がご本人や家族と一緒に迷い、時に医学的合理性を少し脇においても、害の生じないレベルで点滴を実施したり、迷いやブレに付き添うという姿勢を「ともに迷い、探求する実践」として、重要視している様子が描き出される。
ここで何よりも大切にされているのは「共同意思決定」であるが、それを表面的なものとせずに患者や家族の非言語のメッセージまでとらえて、「みんなの前では言えない」ような気持ちは一対一で聴き取ったり、経過とともにその決定が揺らいだりもするのを厭わないという、きめ細やかさの大切さまでをも含めて論じられている。
きわめて繊細であり、私の専門の臨床心理学においても、この共同意思決定という言葉はやっと市民権を得始めたばかりであって「どのようなカウンセリングをしていきたいか」に関しては、まだまだ繊細な意思決定プロセスを経ていない場合がほとんどであると改めて反省させられた。
さて、このようなどこまでも真摯な終末期在宅医療の実践に関して、「こんなに真摯に実践を積み重ねていて、バーンアウトしないのだろうか?」という疑問が湧いてくる。
実際に、終章で著者が触れているように、本書が「規範の提示」つまり達成すべきモデルの提示と受け止められたり、「このような医師はどうしたら養成できるのか」という質問をもらうことも少なくないという。この点に関しては、この書評の最後の部分で「方法論的課題」としても触れたいが、その前に評者としてとても納得のいく、本書のクライマックスというべき記述がある。
それは、第6章において繰り返し述べられている「めぐみのような相互承認」や「まるで恩寵のようにおとずれる感覚」についてである。
さらに少し長くなるが引用すると
*********
意思決定という文脈で言うならば、それは自律した個人の意思を合理的に調停して「決める」のではなく、それぞれが共同性や孤独を、そして受動性を引き受けつつ、ともにより良い道を探ってきた末に物事が「決まる」経験でもある。それは医療者も患者もそれぞれが唯一無二の道のりを懸命に歩んだうえでの必然ではあるが、目的でもなく結果でもなく、体感としては偶然や奇跡のように感じられるものである。(下線は評者による)(p265)
*********
在宅医たちは、患者や周囲の人々との関係の中に身を投じ、偶発性に身を任せながらもなんとか医学的な合理性から手を離さないために、さまざまな水準で自分を変え、時には自分の孤独に向き合い、苦悩や生活史も含めて振り返りながら関係の中に足場をつくり、そこにとどまろうとする。いのちの危機にかかわりながら他者を理解しようとすることで自己を超えた世界を自覚し、そのことで死生観を深め、いのちの尊さを自覚する。そしてそのことが「死者を忘れない」姿勢、そして死後もなおその人とのかかわりから学んだことを反芻し、次の患者に生かしていこうとする姿勢へとつながってゆく。これは、患者のいのちに向き合い、その語りを聞く、すなわち患者からの呼びかけに対して応答しつづけるという形で示される、今までとは異なる形で表れている責任の感覚である。(p277-278)
*********
本書のこのクライマックスを読めば、もう「バーンアウトは?」などの心配は雲散霧消する。
何を隠そう評者も若い頃から「特異体質」などと呼ばれ、夜遅くや土日にも臨床をやっていた身としては、とてもよくわかるのだ。
この恩寵がたまに得られれば疲れは吹き飛び、患者以外の人ともこれを感じられるという般化が生じるのだ!
(評者は、もちろん子育て中は夜間の臨床は制限し、土日のどちらかは家事育児に専念した。けれどもそれが空けた今となっては、また再び大学勤務の傍ら土日と平日朝晩の臨床で、この「恩寵」に浴しているが、他のスタッフにそれを求めてはいない。)
この恩寵は著者の言うように「孤独と他者性を自覚して実存的な問いを深めてゆく」(p259)「偶発的に「人と人としての」つながりの感覚を感じられる経験」(p262)というものであるので、まれにしか訪れない。だからこそ、中毒性(正しくは依存性)のあるもので、やめることができない。
このような恩寵を求めてしまう人間は、どんな人間なのかという問いはある。例えば、その昔、河合隼雄は心理臨床家についてではあるが「こんな大変な仕事をする人間は、きっと前世で極悪人やったんやろうと思う」と発言されていた。
本書の著者はどうかわからないが、評者の私は、おそらくそうだったに違いない。
けれども、このような限定的な「恩寵」を味わう感覚こそ現代のスピリチュアリティの中核だとも思う。あるいは、少し控えめに言って「現代のヒューマンサービスに携わる人間の専門的なスピリチュアリティ」と言っていいだろう。
そして、この恩寵こそが「お客様は神様」と言われてしまう現代日本で、ヒューマンサービスやケアの仕事にかかわりながらも、自己疎外や学習性無力感、あるいはその反対の拝金主義や神秘主義に陥らずに、実践を積み重ねていく唯一の原動力となるのだと思う。
以前評者(福島,2017)は「(カウンセラーの)「セルフケア」と「自己点検」は,基本的には「すべて臨床活動(訓練も含む)のなかでされるべき」と書いたりしてきた。つまりカウンセラーの臨床的なストレスは、十分な内省を経たのちに「クライエントと共有する」ことで、ストレスではなく前向きな取り組みとして解消されるとした。(ブログ「カウンセラーのセルフケアと自己点検」も参照)
このような「セルフケア」と「自己点検」という観点は、言葉そのものは世俗的なものではあるが、その本質はやはり「恩寵」をどう感じられるかだと思うのだ。
もっと大きく言えば、このような恩寵の感じ方には、オウム真理教事件から東日本大震災を経て、コロナ禍でダメ押しされた感のある「怪しいスピリチュアリスト」とはまったく違う、本当の意味でのスピリチュアリティの萌芽があるのではないだろうか?
以前のブログ「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)においても紹介したが、著者の大田が
「オウム真理教のようなカルトは、たまたま出現したのでも日本だからこそ拡大成長したのでもない。この問題はまさに近代というシステムが「死」の問題に対して答えを出せていないがゆえのことであり、その意味でこれからも同様のカルトが出現する可能性がある」としている記述を思い出す(下線は引用者による)。
この「死」の問題に、評者の私は「心理臨床の中でどう向き合ったらいいか」をいつも自問自答しながらいた。しかし、本書を読んで、ここに大きなヒントがあると痛感した。そして、やはり近いところにいるという実感も強めた。
現代のスピリチュアリティは、このようなコツコツと地味な実践を通じてしか立ち現れないのだ。
最後に、無理を承知で、あるいは評者の不勉強の可能性を顧みずに、方法論的な課題を記しておきたい。
それは、サンプリングの問題である。
このようなテーマのインタビュー調査は、心理学においてもサンプリングは「縁故法」となることが多いのは同様である。しかしながら心理学のインタビュー調査であれば、理論的サンプリングとして「対極例」を探すのが通例となる。人類学や民俗学でそのようなサンプリングが行われるのは見聞きしたことはないが、可能ならばそうすることで、より現状や実態に近い描写が可能になると思う。
つまりこの調査では、「在宅医としてバーンアウトもしくは他科に転向した例」や「関わりつづけない医療」を実践していると思われる例などとなろうか。
そうでない場合は、このような研究は、臨床心理学では「エキスパート研究」として、理想の実践者が、どのような変遷をたどって現在のような実践に至ったかを、詳しく考察するものとなる。
歴史の浅い分野や論争中の実践においては、対極例を平等に描き出す研究よりも、この「エキスパート研究」の方が、実践的な指針と課題を浮き彫りにするという意味でも価値が高い場合もある。
この辺りの位置づけや記述があるとさらに良かったと思う。
○文献
福島哲夫(2017) カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?臨床心理学第 17 巻第 1 号
大田俊寛(2011)『オウム真理教の精神史』春秋社
2025年
6月
09日
月
(本年6月末に久々の単著「プロカウンセラーの人を見る技術」が出版されます。ここでは、その中の1節をにさらに加筆したものを紹介いたします。以下のリンクから立ち読み・予約可能です
内閣府による令和4年の調査によれば、孤独感が「しばしばある・常にある」と回答した人の割合は4.9%、「時々ある」が15.8%、「たまにある」が19.6%でした。これらを合計すると40%を超えている計算になります。そして令和5年の調査と比較しても有意に増加していることが確かめられています。
この調査はインターネットによる2万人を対象としたものですが、本当に孤立している人はこのような調査に答えないかもしれないという意味では、実際はさらに高い割合になっているかもしれません。
さらに別の研究として、岩村暢子氏の『ぼっちな食卓』(中央公論新社、2023年)が注目に値します。氏の20年にわたる追跡調査によると、子どもが小学校・中学校という早い時期から家族そろっての食事にこだわらず、各自が好きなときに好きなものを食べるというスタイルになっていた家庭ほど、10年後、20年後に引きこもりや不登校、無断外泊が多くなる確率が高いとしています。
また、こうした家庭の特徴として「貧困」や「親の多忙さ」「複雑な家庭事情」などは認められず、その多くが「リクエスト食」と言われる子どもが小さいときからリクエストに応じて好きなものだけ食べさせた家庭や、「セルフ食」と言われる自分でコンビニで買わせたり、冷蔵庫の中の好きなものを「レンジでチン」して食べさせた家庭だったとしています。
このように、一見「自由と主体性」を早くから保証した家庭生活の方が、子育て環境としてはかえって望ましいものではなかったのです。
これは一体どういうことでしょうか。
さらにもう一つ興味深い指摘として、石田光規氏の『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマ―新書、2022年)があります。本書の中で石田氏は、「人それぞれ」という個人化が進んだ社会において、近隣や勤め先、親戚などの「余計なおせっかい」がなくなり、人が自由を満喫できるようになった反面、対人関係でトラブルになってもそれを修復するシステムが失われたために、若者の中で「友人であっても気を遣って、なかなか深い話ができない」人が年々増加して、結果的に「つながり」が不安定になっていると指摘しています。そして、この「不安定なつながり」を何とかしようとして、気遣いや「感謝」「嬉しい」といったポジティブな感情表現があるしっかりとした「コミュニケーション」を大切にするけれども、結果的には「ふれあい回避」になり、孤独感が高まっている様子を様々なデータから考察しています。
こうした状況を大きな流れの中で考えると、私たちはこの100年ほど、「いかに家族や共同体(村社会など)から解放されて自由になるか」を求めて生きてきたと言えます。故郷から離れて都会に移り住むこと。親の干渉を受けずに結婚相手を決めること。そして家ではそれぞれの部屋を確保して、干渉しすぎないで生活すること。さらにテレビや電話に代表される通信機器は、共有せずに個々人が所有して使うことなど。望むと望まないにかかわらず、私たちは「個別化」の急速な流れに乗っています。
そして家族そのものも、大家族から核家族へ、そして単身家庭の増加へと至ります。その流れの中で食事も、大家族が一室で同時に食べる形から、家族はいてもバラバラな食事に、一人暮らしの人は当然ながら「個食」になりました。このような個別化によって、私たちは自由や効率性などを手に入れてきたことは間違いないでしょう。
けれども、この個別化が「孤独化」をもたらし、さらに個食というスタイルは、少なくとも子どもたちには悪い影響を与えることがわかっています。
心理療法も「個」を重んじるものから「温かさ」と「つながり」を重んじるものに
このような流れを受けて、現代心理療法は「内省を通じて個を確立する」というものから「温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復を大切にする」というものへと変化しつつあります。
内省を通じて個を確立するためには、カウンセラーからの余分なアドバイスや肯定は要りませんし、距離もやや遠めがいいということが分かります。けれども温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復をするならば、カウンセラーのできるだけ誠意のあるアドバイスや肯定、近い心理的距離からの介入が必要となってくるわけです。
これは、フロイトもユングも(おそらく森田療法の森田正馬や、内観療法の吉本伊信も)大家族の中で日々暮らしていたことを考えても想像できるところです。そして、ユングが晩年は石ノ塔にこもって一人で生活していたということも、時代の先取りともあるいは、東洋的ともいえるかもしれません。この点に関しては、近い機会にまた別のブログで書いてみたいと思います。
子育てから効率性を排除する
プロカウンセラーとしての私は、時としてこの効率化とコスパ重視の社会に背を向けて、「効率性を排除しましょう」とアドバイスせざるを得ないことがあります。
それは思春期の子どもが、反抗的な態度で非行傾向を示して、夜はなかなか家に帰ってこず、繁華街の路上で長時間を過ごしているといった行動が明らかになったときです。この子たちの言動を細かく見聞きすると、明らかに親の愛情不足を訴えていて、そこから来る孤独感を何とかしようとして非行化していることがわかるのです。
そういうとき、私は親御さんに「できるだけ手間をかけましょう。干渉したりコントロールするのではなく、手間暇をかけるのです」「もし学校のことや勉強のこと、お金のことやその他のことで『どうするのが正解か』迷ったら、『手間暇のかかる方』を選んでください。送り迎えでも、食事でも、塾選びでも何でもかまいません。それが今、愛情を伝える唯一の方法です」と伝えます。
晩ご飯をどうするか迷ったときには、たとえ子どもがコンビニ食を希望しても、わざわざ手作りのご飯を作る方がいいのです。
このアドバイスを親御さんが実践していくと、子どもの非行や外泊はだんだんと減っていきます。もちろん、過干渉で問題が生じていると思われる親御さんには「もうこの年齢なので手放しましょう」(本書の別の章参照)というアドバイスするのですが。
今後も、この個別化の流れはとどめることは難しいかもしれません。けれども、そのような流れの中で、私たちはいかに「孤立と孤独」を避けるシステムや社会を作っていけるのかが問われていると言えるでしょう。
ただし、これ以上子育てに手間をかけろなんて言うと、さらに少子化は進んでしまうかもしれません。その意味では「塾や勉強に手間をかけるのではなく、大人も子どもと一緒に遊ぶ時間を増やしましょう」という提言をしたいと思っています。
以上
2025年
5月
05日
月
私たち現代人は「着ぐるみ」的な生き方を強いられていると言えます。
「着ぐるみ的な生き方」とは、現代の若者に代表される傾向として、「ソフトで人当たりのいい」、「平和主義者」として世の中から逸脱せず、「個性的」と言われるような悪目立ちはせず、「いい人」としての生き方を強いられている生き方です。
それはまるでゆるキャラの着ぐるみを着ているような状態で、本当の自分とは別の姿です。そしてその着ぐるみの中はじつはとても暑かったり、暗かったりで、孤独でネガティブになりやすい状態です。着ぐるみはしゃべることを許されず、中でひっそりとつぶやく言葉は、驚くほどネガティブだったりするけれど、それを誰にも言えないので、SNSなどでこっそりつぶやくしかないのです。
そして、この着ぐるみはいろいろと身に着けているものは多いのに(というかだからこそ)、案外不安定で余裕がありません。着ぐるみ同士でうっかり近づきすぎて、ハグしたり支えあおうとしたりすると共倒れにもなりかねません。なので、少し離れたところから両手を精一杯振るしかないのです。つまり、あまり「心から共感」したり「コミット」したりするのは、とても危険なことなのです。そして「みんな人それぞれだし・・・」と思っているのです。このことがさらに着ぐるみさんたちの孤独を深めているのかもしれません。また、この着ぐるみの中で誰にも見えない「傷」を抱えて、それがずっと癒されないままになって痛み続けていることも多いのです。
カウンセラーとしての私は、このような現代人が着させられている(着るしかない)着ぐるみを、まずは着ぐるみそのものとして理解して支援し、さらにその中に入っているのはどのような人なのかを推測しながら、共感的に支援するという営みを続けています。
世の中では実際に近年、着ぐるみやゆるキャラが全国的にとても人気を博していますが、私自身はいつも「中の人」のことが気になってしまいます。とりあえずその場では人気者だったり喜ばれていますが、それはあくまでも「着ぐるみ」が喜ばれているだけです。そして、そのことは着ぐるみを着ている当人が一番強く感じていることなのです。
この「中の人」は、自分でどんな着ぐるみ(時にゆるキャラ)を着ているかはわかっていても、中の人として本当は何を感じているのか、何に苦しんでいるのか、そしてなぜこのような状態になっているのかは、よくわかっていない場合が多いのです。なので、カウンセラーとしては、ご本人の言葉と振る舞いをたよりに、ご本人も気づいていなかった「中の人」を理解して、できるだけ無理なくその人らしさが生かせる形で支援しようとしています。
こういったいわば「できるだけ温かくて共感的な理解」こそが「カウンセラーの分析術」だとも言えます。なぜならそのような「温かくて共感的な分析」こそが、実際の支援としても有効だからなのです。つまり、「温かくて共感的な分析」を通じて、上記の「着ぐるみ」が、だんだんと薄くなって、被り物だけでも外せたり、全身がせいぜい透過性のいい(ゴアテックスの)レインスーツくらいになっていけるのです。
2025年
1月
03日
金
大学が冬休み中ですので、久しぶりにブログを書きます。
今回は、書評です。
まず、一読しての感想は「自由な人の書いた自由な本だ!」でした。
そしてサブタイトルに「新人間学」とあるように、徹底して「人間的」だということです。
クライエントとの面接室外での交流、セラピストの驚くような自己開示等々。
時には増井先生ご所有のヨットにもクライエントを乗せ、バイジーたちはバリ島の増井先生の別荘で過ごした思い出を語る。
バイジーたちは毎回の増井邸でのSVの際、妻の直子さんによる送迎とお茶とお菓子のもてなしを(おそらく)必ず受け、帰りの直子さん運転の車の中では、様々な話題が弾む。。。
これらの記述を読み、まず思い出したのが1980年代頃の日本の心理臨床シーンである。
当時、大学院生だった私(評者)は第一線のセラピストたちの集まる懇親会で、先生方が「いやー我が家に(Clの)男の子を預かるのは、家に娘がいるとちょっと心配やなー」等々と語り合っていたのを聞き、「はー、そういうもんなんだな。。。」と多少の違和感とともに受け止めていた。
その席では国分康孝先生(1930年生まれ)、東山紘久先生(1942年生まれ)が特に強く同意しておられたのを記憶している。またその場にはおられなかったが河合隼雄先生(1928年生まれ)は、その名著「カウンセリングの実際問題」に不登校の少年を自宅にしばらく預かっていたことがあると書かれている。かように河合先生の世代とそれに続く先達たちは、クライエントとの枠外での接触について積極的だった。
この本の著者の増井氏は河合先生より20歳近く年下(1945年生まれ)ではあるが、その伝統をしっかりと受け継いでおられるように思う。思えば増井氏よりも7歳年上(1938年生まれ)の評者の最初の師匠、小川捷之先生も若い時、クライエントの男の子とアパートの隣同士で暮らして、毎朝ランニング等をしていたと語っていた。(その男子は、その後、小川先生のいる横浜国立大学の学生となり、ゼミ生となっていた)
さらにその3歳年上の村瀬嘉代子先生(1935年生まれ)は、クライエントを自宅の夕食に呼ぶことがしばしばあったと論文にも書かれている。
以上のように、1980年代までは当然のように行われていた「Clとの枠外での交流」は、次第に影を潜めて、少なくとも公の場では語られなくなった。
その意味で、増井氏の本書は「古き伝統」をしっかりと残してくれている貴重な資料とも言える。
それにしても、である。
今の時代に改めてこのような記述を読むと、セラピーの構造に関しては、ある程度の柔軟性を持った方がよいと考えて実践している私(評者)から見ても、「大丈夫なのだろうか?」と思わざるを得ない。
現在の私は、クライエントと面接室外で会うことはないし、バイジーさんたちとも学会や研修会以外ではほとんど接触しない。
ましてやヨットも別荘も持たないので、招きようもない。
自宅でのホームパーティも学部学生以外には呼ばない。
(やはり日本は貧しくなっていっているのかもしれない・・・。)
今の私は「枠外の」関係なしで、いかに人間的に触れ合い、自由な関係を持てるかを模索しているつもりである。
けれども、インターネットが普及し、SNSが盛んとなり、カウンセリグオフィスではそのホームページにセラピストの情報を載せるのが必須となり、さらにはセラピストの名前を検索すれば、様々な情報が入る現代となって、この問題は別の形で熟考に値するようになっても来ている。
クライエントの方々は、あらかじめ種々の方法でセラピスト情報を手にすることができ、それがいる種の安全性を確保することにもつながる反面、セラピーの経過中でのそれらの情報は「雑音」ともなって、クライエントを苦しめることにもつながる。
本書にはそのようなデジタルツールにおける交流や一方的な曝露については書かれていないが、「枠外でクライエントと接触して、関係性が危うくなることはないのだろうか?」という疑問を持ちながら読み進めたところ、P59に以下のような記述が1回だけされていた。
「本書で提案する方法の適応性は各種の神経症レベルまでで、ボーダーラインのケースや統合失調症には別のアプローチを考えています」と。
たしかに、その範囲に限定すれば、増井氏の臨床的提案はある程度の妥当性があるだろう。
けれども、評者をはじめ臨床心理を専門とする読者が一番読みたいのは、その例外をどのように見極め、どのようにマネージするかという点ではないだろうか。
さらには、神経症レベルともボーダーラインレベルとも言えるトラウマ関連障害をもつクライエントさんに、どう人間的に触れ合うかを学びたいと思っているのではないだろうか。
そのような問わず語りはさておいて、第4章に述べられている以下のような15の原則は、とても示唆深い。
1.治療者が一人の人間に返ることー治療者が面接の場で「自分」に立ち返ること
2.患者さんを肯定的に見ることができる基本的な考え方ー症状能力について
3.治療場面構造の調整(評者注:自由で柔らかな治療構造)
4.面接初期に確認した方が良い要件(評者注:先入見にとらわれない初回面接で「よくなることのイメージの点検」や「趣味や時を忘れるようなことや物の確認」
5.分かりやすく説明する
6.やりたいこと見つけー治療学は休養学です
7.イメージで聴くこと
8.良くなっているところを顕微鏡で見るように拡大して見る
9.手のつけやすいところから手をつける
10. 性格を変えようとせず、環境を変えてみるー架け橋としての治療者
11. 問題を容れ物に入れてどこかに置いておくこと、距離を置いて自分を眺めること
12. 自殺予防
13. 理論を信じず、その場の自分の体験を信じよう
14. 直感を信じること
15. ドタキャンあり
これらは、著者の名人芸的な事例の数々とともに紹介されている。すべて賛成できるものであり、評者も自分なりに実践しているもの(のつもり)である。
そして、ここには著者の師匠格である神田橋先生の影響が色濃く認められる。
評者自身も20代の終わりから30代の前半にかけて、神田橋氏先生の事例検討セミナーに毎月参加して、それまでの理論重視の教えからずいぶんと解放された気がした経験がある。
けれども、やはり先に述べたような面接室外を含む自由な関りを、現実適応力は高いけれどもボーダーライン的な要素を持つクライエントやトラウマに苦しみながらも、現実はしっかりと保って生きているクライエントにも持つのか等々、疑問は尽きない。
上記の1~15の原則については、本書の後半でのバイジーさんたちの記述が、増井氏の新人間学とされる臨床的な姿勢について、その具体的なコツをかなり補足してくれていて、伝わりやすいものになっている。
言い方を変えれば、増井氏の(現代日本においては)自由過ぎる姿勢を、もう少し現代風に解題してくれているとも言える。
なかでも浅野みどり氏の論考は、セラピストの自己開示やノンバーバルな部分の大切さ、そして何より枠外でのクライエントとの接触について、「非性的な多重関係」として丁寧に論じられている。そして、クライエントとの「個人的な関係」について、抑制のきいた文章で慎重に論じられている点で、増井氏の論考を補足して余りあるとすら言える。
本書に見られる、増井氏の論述とバイジーさんたちの論述の自由度の違いとも言える温度差、そして筆者と評者との姿勢の違いは一言で言ってしまえば、「時代の違い」から来るものが多いと言えるだろう。
けれども、「時代が違うから」と一言で済ますのではなく、その中から引き継ぐべきものと変えていくべきものをしっかり弁別する必要がある。
枠外での交流は控えるにしても、いかにClと人間的な交流を保ち続けるか、そしてそれでありながら、その限界をもわきまえて「出来ることと出来ないこと」のバランス、理想主義と現実主義のバランス、専門性と人間性(職業的関係と人間的関係)のバランス等々、種々のバランスを最適に保つかが問われているのだと、あらためて意識させられる良書であった。
以上
2024年
8月
20日
火
第12章 統合的心理療法が最も役立つ複雑性PTSDの治療―トラウマのメガネと統合的技法が最大限生かされる時
1.はじめに
この章では、統合的心理療法の応用編として、トラウマインフォームドケアの考えに基づく複雑性PTSDの統合的治療について、解説します。
近年、トラウマインフォームドケアと、複雑性PTSDの治療が注目されてきています。
このトラウマインフォームドケア(TIC)とは、支援者たちがトラウマに関する知識や対応を身につけ、対象者の人たちに「トラウマがあるかもしれない」という観点をもって対応する支援の枠組みです。このTICという考え方は、2000年代以降、北米を中心に広がりを見せ、近年日本においても、医療、福祉、司法、教育の領域にも適応されるようになってきています(大阪教育大学,2023)。
この考え方は「トラウマのメガネ」とも呼ばれていて、「この人(子ども)の、一見理不尽な言動や、過剰な反応の裏にはトラウマがあるのかもしれないという目で見てみる」ということの意義が唱えられています。「色眼鏡で見る」と言えば「物事を歪んだ(偏った)見方から見る」という否定的な意味で使われますが、この「トラウマのメガネ」は、これをかけて初めて問題の本質が見え、正しい対応が見えてくるという意味で、大切な発想となっています。
このような考え方が出てきた背景の一つには、1990年代後半から行われるようになった小児期逆境体験(Adverse Child Experiences: ACE)研究の蓄積があります。これらの研究で、関係者が考える以上に多くの人が虐待や家族機能不全といった逆境体験をもっているだけではなく、さらにその後の逆境体験を重ねれば重ねるほど行動面、心理面、健康面のリスクが高まることが明らかにされました。逆境体験がすべてトラウマになるとは限りませんが、トラウマを理解して対応していくことの必要性が認識されるようになりました(大阪教育大学,2023)。
また複雑性PTSD(Complex PTSD:以下CPTSD)は、ハーマン(Herman,1992)によって提唱されて以来、診断概念としては正式に認められないままに今世紀に至っていましたが、ICD-11(世界保健機構国際疾病分類第11版)により、2022年にWHOにおいて2019年採択2022年発効という形で正式に認められました。これはこれまで米国精神医学会の診断基準DSM-5でははっきりと定義されなかった長期反復性のトラウマのサバイバーに関して、複雑性PTED(CPTSD)が、公式診断とされた画期的な出来事と言っていいでしょう。
振り返ってみれば、私たち心理職は、すでに長い間「トラウマ」や「虐待」そして「機能不全家族」などの概念には親しんできたものの、それらに対して系統的で体系的なアセスメントやセラピーの訓練は受けてきていませんでした。けれども、今思うと「あのケースもそうだった」と強く思わされる事例が多く、これは「発達障害」が初めて本格的に紹介された頃の感覚に近いものがあります。
2.複雑性PTSD(ⅭPTSD)とは
ⅭPTSDは、ハーマンによって1992年に提唱されたもので、定義としては以下のようになります。「極度に脅威的ないしは恐怖となる性質の出来事で、最も多くは、逃れることが困難ないしは不可能で、長期間あるいは繰り返された出来事に曝露したあとに生じる障害」(World Health Organization,2018)。そして、このような出来事の例として、拷問、奴隷、虐殺、長期的な家庭内暴力、繰り返される子ども時代の性的もしくは身体的虐待などがあげられています。
そして以下のような症状を伴っているとされました。
①再体験症状:re-experiencing;再体験
鮮明な侵入的記憶で、フラッシュバックや悪夢の形による、トラウマ的な出来事が今起きているように感じる再体験
②回避症状:avoidance of traumatic reminders;回避
出来事に関する思考や記憶の回避、あるいは出来事を想起させるような活動、状況、人物の回避
③脅威の感覚(過度の警戒心):persistent sense of current threat that is manifested by exaggerated startle and hypervigilance;過覚醒
今も脅威が高まっているような持続的で、過度な警戒心ないしは不意の物音などに対する過剰な驚愕反応
④感情制御困難:affective dysregulation;感情の調整不全
情動反応性亢進(気持ちが傷つきやすいなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および陽性の感情の体験困難
⑤否定的自己概念:negative self-concept;否定的な自己概念
自己の矮小感、敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広範な恥、自責の感覚
⑥対人関係の障害:disturbances in relationships;関係性の障害
他者に親近感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ
以上のうち①~③はPTSD(心的外傷性ストレス後症候群)と同じです。そして④~⑥は自己組織化の障害と呼ばれるものです。この自己組織化の障害とは、一言で言えば「自分を保っていることがとても難しい」状態だと言えます。
けれども臨床的には境界性パーソナリティ障害(BPD)との区別が難しいともされています。BPDは上記④~⑥の自己組織化の障害に加えて、「見捨てられを防ぐための極端なしがみつき」「理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係」「とても不安定な自己感覚・自己イメージ」が特徴とされます。また、自殺企図や自殺行為がBPDでは高く(約50%)、CPTSDではPTSDと同様に15%前後とされています。
表10-1.境界性パーソナリティ障害(BPD)とCPTSDとの鑑別(飛鳥井,2021をもとに筆者が作成)
自己組織化の障害(DSO) |
BPDとCPTSD |
主な違い |
自己概念の障害 |
BPD |
アップダウンする不安定な自己感覚 |
CPTSD |
常に否定的な自己感覚を反映 |
|
対人関係の障害
|
BPD |
急に変化しやすい対人交流パターン(ex.理想化とこきおろし) |
CPTSD |
対人関係の持続的回避傾向(親密な関係を避けてしまう) |
|
その他 |
BPD |
操作性、衝動性、見捨てられ不安、自殺企図や自傷行為の反復などの特徴 |
CPTSD |
自殺企図や自傷行為が出現することもあるが、病態の中心ではない。 トラウマ特異的なPTSD症状の存在がある。(ex.様々な身体症状や自律神経の不調)
|
また、岡野(2021)は、CPTSDの治療の際には、従来の精神分析的な治療を、以下のように変更する必要があるとしている。
表10-2.CPTSD治療のための精神分析治療の変更点(岡野,2021をもとに筆者が作成)
主な変更項目 |
内容 |
①治療関係の安全性と癒しの役割
|
治療場面が傷つき体験とならないよう、治療構造の「柔構造」的なあり方が必要 |
②トラウマ体験に対する(加害者側に立つと誤解されない)真の中立性 |
必要に応じてThの態度表明や感情表現をすることが真の中立性を保つうえで重要 |
③愛着トラウマという視点
|
治療者は過去のトラウマの想起やその治療的な扱いを優先的な治療目標とする姿勢から離れる。まずは安全な治療関係を形成することを第一目標とすべき |
④解離の概念の重視
|
解離・転換症状を扱うことを回避せず、症状や主張の背後の意味を読み、受け取っていく |
⑤関係性や逆転移の視点の重視
|
治療者側の救済願望により、治療関係が新たなストレス体験とならないよう、来談者への気持ちに常に適度なブレーキを踏み続けるような治療関係が望ましい |
⑥倫理原則の遵守 |
トラウマ体験により治療者に対しても加害的イメージを投影する可能性が高いため、最大の配慮を払う |
これらは、世界的な趨勢でもあり、主な現代心理療法や20世紀末から21世紀にかけて生まれた新しい心理療法は、全てこの傾向を備えているとも言えます。また、統合的心理療法もこの方向性にあることは疑いようがなく、上記の姿勢に「複数の異なった治療理論や治療技法を駆使する」を加えれば、そのまま統合的心理療法になると言っても過言ではないでしょう。
また、これまでの筆者の経験からも、とくにCPTSDのClには、単一技法はあまり効果的ではなく、「柔構造」の中で、ThがClの味方であるという「態度表明」や「感情表現」を通じて、決して冷たい中立性ではなく、加害者に怒りも感じる道義的な人間としての安心・安全感を持ってもらう必要があります。そしてまずはセルフケアやストレスコーピングの具体策について、時に心理教育もしながら、さらに症状を乗り越えていくためのワークを導入する必要もあります。時には家族に会う必要もあり、場合によっては家族や加害者とその関係者へのメールなどを作成するサポートも必要と考えます。
以下に、いくつかの事例とともに、このようなCPTSDへの統合的心理療法のあり方を検討していきたいと思います。
(以下、省略)表10-4参照
2025年
7月
05日
土
真摯な本である。内容も構成も書きぶりも。
そして、なによりも行間から、著者自身を含めた本書に登場する在宅医たちの日々の臨床姿勢の真摯さがあふれ出てくるようである。
そして、通読して本書のタイトルでもある「関わりつづける」という言葉が、評者の私(福島)の専門である臨床心理学で言う「そこに居つづける」という言葉に限りなく近く、そしてより正確に響きつづけている気がした。
さらに、「訪問する」ことの大変さと尊さと。
私自身、若い頃に何例か長期的な訪問カウンセリングを担当したり、修士論文やその後の研究でも大学院の隣の研究室の仲間たちと宗教学のフィールドワークをしていた関係で、「訪問」することの心身への負担を十分に思い知っており、それを専門として数十年も続ける在宅医の真摯さには「かなわない」と、日頃思っているからでもある。
本書は著者自身も在宅医であるが、自身の実践には直接には全く言及せずに、26名の現役在宅医にインタビューした結果とその考察を基本にしている。
「あとがき」によれば、著者は大学時代に所属していたヨット部の大会で海難事故に遭い、数時間にわたって身一つで漂流し、たまたま運良く助かった経験もあって「自分ごととして死を意識」するようになったとともに「死に接近しすぎた経験は自分と世界の距離を感じることにもつながった」とのことである。
この経験による世界の感じ方二つが、おそらく本書にも滲みわたっている真摯さと客観性とを生んでいると思うのは、深読みしすぎであろうか?
その後筆者は地域医療に力を入れる病院で研修医生活を送り、さらに西伊豆の小さな漁村での診療、そして後期研修では緩和ケアや沖縄の離島での診療支援などを経て、並行して上智大学の実践宗教学研究科博士課程に進学し修了して、文学博士となっている。
本書はその博士論文を大幅に加筆・修正したものらしい。
その後、著者は現在は都内の在宅診療のクリニックの院長を務める傍ら、上智大学グリーフケア研究所の研究員、東京慈恵医科大学非常勤講師なども務めておられる。
本書の1~3章においては、「医師とは何か」から始まり、医療の歴史と「なぜ在宅医の死生観」に注目したのかがていねいに書かれている。それらは単なる医療の歴史ではなく、「いのち」や「死生観」、そして「ケアする専門家」というキーワードを中心にして、広く「前近代」から「近代社会」が成立するとともに「病院の世紀」が始まり、救急期医療としての古典的在宅医療は衰退していったとする。
そしてさらに、著者の豊富な社会学的な学識を生かして、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュなどの後期近代論の中でも、そこにポストモダンとレイトモダンという二つの層によって「死」のあり様が変化して行ったとするウォルターの議論を使いながら1970年代以降の日本の死と社会や医療のかかわりについて考察している。
上記のような「死」の変化は、端的に言えば、「死の私化」や「死の個人化」とも言われる現象であり、個人レベルで死にゆくプロセスを自己決定し、自分らしい死に方をとることが望ましいと考えられるようになるプロセスであるということである。
翻って、評者(福島)の専門である臨床心理学を顧みた場合、古代の呪術や近世までの宗教から心理療法の分離独立、ジャネ・P、シャルコーやフロイト、ユングによる深層心理学的心理療法の発見とその発展、軍隊と学校の近代化に伴う知能検査に代表される心理学的測定法の発展の歴史を整理することはできても、行動療法と認知療法の出現以降に関しては、それぞれの学派の伝統が独自に発展し続けていて、近代から現代という大きな歴史の中に位置づけて統合的に語ることがほとんどできていないことに改めて忸怩たる思いを抱いた。
著者は本書では全く触れられていないが、内科医学的知識、薬理学的知識など専門医としての知識と思考力は当然ながら備えておられるはずでありながらも、上記のような社会学的な学識を十分に我が物にしている点で、すでに「知の巨人」となりつつある様子がうかがわれる。現代の「ケア」を本気で語るには、このような理系・文系の枠にとらわれない知の巨人たることが必須なのかもしれないと痛感させられた。
さらにこの博識ぶりは、柳田国男と折口信夫に代表される日本の死生観にも触れ、折口の「まれびと」論による「近代人の孤独」を重視している点も、かび臭い書庫(失礼!)にとどまらない実践的な論となっている。
このブログは極めて私的な「私設カウンセリングオフィス」のブログなので、この際遠慮なく評者の自己開示もさせていただこう。学部時代は文学部日本文学科にいて、柳田民俗学の正当な流れをくむ教授や、近代日本文学研究の大家たちの授業を聴きながら、「それで今生きてる人間はどうなん?」という疑問をぬぐい切れず、大学院から臨床心理学に転向した。そんな私としては、折口民俗学が現代人の孤独感や死生観につながっているとは思わなかったし、誰も教えてくれなかった。ましてや当時うっすらと感じていた柳田民俗学への違和感(他の学生や先生方は、崇拝していたのに)は、「僕の頭が悪いんだ」としか感じられていなかった。
ついでながらさらに言えば、漱石や太宰の作中人物やご本人の生き方には、あまり共感できなかったが、土居健郎の「甘え」理論が登場するまでは、私の中では「日本文学科に居ながら、漱石と太宰に違和感を持ち続ける、勉強不足な僕」でしかなかった。(当時の僕には、あの自決事件とは別に三島由紀夫の文章の方が、潔くてとりあえず論理性があって好感が持てたし、森鴎外のエリス事件からの逃げっぷりにはあきれてはいたが、鴎外の文章や論争は好きだった)
挙句の果てにさまよい続けて、親鸞聖人(「歎異抄」ではなく、本物の「教行信証」の方)を卒論のテーマに選んだ21歳の頃の僕だった。
ものすごく脱線してしまいました。。。
さて、本書のメインディッシュはもちろん、4章以降の26名の医師へのインタビューとその分析・考察である。
インタビューに先立って著者は、その倫理的配慮の中で、著者自身の立場を明らかにし、「医師が医師について考察すること」のメリットと限界についても明らかにしている。そして、それについての可能な限りの配慮もされている点が、冒頭述べた「真摯な本」である一つであるし、それがかなり成功していると言っていいだろう。
そして具体的には「終末期における入院への迷い」「終末期における点滴の可否」「ACP(厚労省の命名では「人生会議」)における、意思決定モデルの危うさ」などを通じて、在宅医がご本人や家族と一緒に迷い、時に医学的合理性を少し脇においても、害の生じないレベルで点滴を実施したり、迷いやブレに付き添うという姿勢を「ともに迷い、探求する実践」として、重要視している様子が描き出される。
ここで何よりも大切にされているのは「共同意思決定」であるが、それを表面的なものとせずに患者や家族の非言語のメッセージまでとらえて、「みんなの前では言えない」ような気持ちは一対一で聴き取ったり、経過とともにその決定が揺らいだりもするのを厭わないという、きめ細やかさの大切さまでをも含めて論じられている。
きわめて繊細であり、私の専門の臨床心理学においても、この共同意思決定という言葉はやっと市民権を得始めたばかりであって「どのようなカウンセリングをしていきたいか」に関しては、まだまだ繊細な意思決定プロセスを経ていない場合がほとんどであると改めて反省させられた。
さて、このようなどこまでも真摯な終末期在宅医療の実践に関して、「こんなに真摯に実践を積み重ねていて、バーンアウトしないのだろうか?」という疑問が湧いてくる。
実際に、終章で著者が触れているように、本書が「規範の提示」つまり達成すべきモデルの提示と受け止められたり、「このような医師はどうしたら養成できるのか」という質問をもらうことも少なくないという。この点に関しては、この書評の最後の部分で「方法論的課題」としても触れたいが、その前に評者としてとても納得のいく、本書のクライマックスというべき記述がある。
それは、第6章において繰り返し述べられている「めぐみのような相互承認」や「まるで恩寵のようにおとずれる感覚」についてである。
さらに少し長くなるが引用すると
*********
意思決定という文脈で言うならば、それは自律した個人の意思を合理的に調停して「決める」のではなく、それぞれが共同性や孤独を、そして受動性を引き受けつつ、ともにより良い道を探ってきた末に物事が「決まる」経験でもある。それは医療者も患者もそれぞれが唯一無二の道のりを懸命に歩んだうえでの必然ではあるが、目的でもなく結果でもなく、体感としては偶然や奇跡のように感じられるものである。(下線は評者による)(p265)
*********
在宅医たちは、患者や周囲の人々との関係の中に身を投じ、偶発性に身を任せながらもなんとか医学的な合理性から手を離さないために、さまざまな水準で自分を変え、時には自分の孤独に向き合い、苦悩や生活史も含めて振り返りながら関係の中に足場をつくり、そこにとどまろうとする。いのちの危機にかかわりながら他者を理解しようとすることで自己を超えた世界を自覚し、そのことで死生観を深め、いのちの尊さを自覚する。そしてそのことが「死者を忘れない」姿勢、そして死後もなおその人とのかかわりから学んだことを反芻し、次の患者に生かしていこうとする姿勢へとつながってゆく。これは、患者のいのちに向き合い、その語りを聞く、すなわち患者からの呼びかけに対して応答しつづけるという形で示される、今までとは異なる形で表れている責任の感覚である。(p277-278)
*********
本書のこのクライマックスを読めば、もう「バーンアウトは?」などの心配は雲散霧消する。
何を隠そう評者も若い頃から「特異体質」などと呼ばれ、夜遅くや土日にも臨床をやっていた身としては、とてもよくわかるのだ。
この恩寵がたまに得られれば疲れは吹き飛び、患者以外の人ともこれを感じられるという般化が生じるのだ!
(評者は、もちろん子育て中は夜間の臨床は制限し、土日のどちらかは家事育児に専念した。けれどもそれが空けた今となっては、また再び大学勤務の傍ら土日と平日朝晩の臨床で、この「恩寵」に浴しているが、他のスタッフにそれを求めてはいない。)
この恩寵は著者の言うように「孤独と他者性を自覚して実存的な問いを深めてゆく」(p259)「偶発的に「人と人としての」つながりの感覚を感じられる経験」(p262)というものであるので、まれにしか訪れない。だからこそ、中毒性(正しくは依存性)のあるもので、やめることができない。
このような恩寵を求めてしまう人間は、どんな人間なのかという問いはある。例えば、その昔、河合隼雄は心理臨床家についてではあるが「こんな大変な仕事をする人間は、きっと前世で極悪人やったんやろうと思う」と発言されていた。
本書の著者はどうかわからないが、評者の私は、おそらくそうだったに違いない。
けれども、このような限定的な「恩寵」を味わう感覚こそ現代のスピリチュアリティの中核だとも思う。あるいは、少し控えめに言って「現代のヒューマンサービスに携わる人間の専門的なスピリチュアリティ」と言っていいだろう。
そして、この恩寵こそが「お客様は神様」と言われてしまう現代日本で、ヒューマンサービスやケアの仕事にかかわりながらも、自己疎外や学習性無力感、あるいはその反対の拝金主義や神秘主義に陥らずに、実践を積み重ねていく唯一の原動力となるのだと思う。
以前評者(福島,2017)は「(カウンセラーの)「セルフケア」と「自己点検」は,基本的には「すべて臨床活動(訓練も含む)のなかでされるべき」と書いたりしてきた。つまりカウンセラーの臨床的なストレスは、十分な内省を経たのちに「クライエントと共有する」ことで、ストレスではなく前向きな取り組みとして解消されるとした。(ブログ「カウンセラーのセルフケアと自己点検」も参照)
このような「セルフケア」と「自己点検」という観点は、言葉そのものは世俗的なものではあるが、その本質はやはり「恩寵」をどう感じられるかだと思うのだ。
もっと大きく言えば、このような恩寵の感じ方には、オウム真理教事件から東日本大震災を経て、コロナ禍でダメ押しされた感のある「怪しいスピリチュアリスト」とはまったく違う、本当の意味でのスピリチュアリティの萌芽があるのではないだろうか?
以前のブログ「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)においても紹介したが、著者の大田が
「オウム真理教のようなカルトは、たまたま出現したのでも日本だからこそ拡大成長したのでもない。この問題はまさに近代というシステムが「死」の問題に対して答えを出せていないがゆえのことであり、その意味でこれからも同様のカルトが出現する可能性がある」としている記述を思い出す(下線は引用者による)。
この「死」の問題に、評者の私は「心理臨床の中でどう向き合ったらいいか」をいつも自問自答しながらいた。しかし、本書を読んで、ここに大きなヒントがあると痛感した。そして、やはり近いところにいるという実感も強めた。
現代のスピリチュアリティは、このようなコツコツと地味な実践を通じてしか立ち現れないのだ。
最後に、無理を承知で、あるいは評者の不勉強の可能性を顧みずに、方法論的な課題を記しておきたい。
それは、サンプリングの問題である。
このようなテーマのインタビュー調査は、心理学においてもサンプリングは「縁故法」となることが多いのは同様である。しかしながら心理学のインタビュー調査であれば、理論的サンプリングとして「対極例」を探すのが通例となる。人類学や民俗学でそのようなサンプリングが行われるのは見聞きしたことはないが、可能ならばそうすることで、より現状や実態に近い描写が可能になると思う。
つまりこの調査では、「在宅医としてバーンアウトもしくは他科に転向した例」や「関わりつづけない医療」を実践していると思われる例などとなろうか。
そうでない場合は、このような研究は、臨床心理学では「エキスパート研究」として、理想の実践者が、どのような変遷をたどって現在のような実践に至ったかを、詳しく考察するものとなる。
歴史の浅い分野や論争中の実践においては、対極例を平等に描き出す研究よりも、この「エキスパート研究」の方が、実践的な指針と課題を浮き彫りにするという意味でも価値が高い場合もある。
この辺りの位置づけや記述があるとさらに良かったと思う。
○文献
福島哲夫(2017) カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?臨床心理学第 17 巻第 1 号
大田俊寛(2011)『オウム真理教の精神史』春秋社
2025年
6月
09日
月
(本年6月末に久々の単著「プロカウンセラーの人を見る技術」が出版されます。ここでは、その中の1節をにさらに加筆したものを紹介いたします。以下のリンクから立ち読み・予約可能です
内閣府による令和4年の調査によれば、孤独感が「しばしばある・常にある」と回答した人の割合は4.9%、「時々ある」が15.8%、「たまにある」が19.6%でした。これらを合計すると40%を超えている計算になります。そして令和5年の調査と比較しても有意に増加していることが確かめられています。
この調査はインターネットによる2万人を対象としたものですが、本当に孤立している人はこのような調査に答えないかもしれないという意味では、実際はさらに高い割合になっているかもしれません。
さらに別の研究として、岩村暢子氏の『ぼっちな食卓』(中央公論新社、2023年)が注目に値します。氏の20年にわたる追跡調査によると、子どもが小学校・中学校という早い時期から家族そろっての食事にこだわらず、各自が好きなときに好きなものを食べるというスタイルになっていた家庭ほど、10年後、20年後に引きこもりや不登校、無断外泊が多くなる確率が高いとしています。
また、こうした家庭の特徴として「貧困」や「親の多忙さ」「複雑な家庭事情」などは認められず、その多くが「リクエスト食」と言われる子どもが小さいときからリクエストに応じて好きなものだけ食べさせた家庭や、「セルフ食」と言われる自分でコンビニで買わせたり、冷蔵庫の中の好きなものを「レンジでチン」して食べさせた家庭だったとしています。
このように、一見「自由と主体性」を早くから保証した家庭生活の方が、子育て環境としてはかえって望ましいものではなかったのです。
これは一体どういうことでしょうか。
さらにもう一つ興味深い指摘として、石田光規氏の『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマ―新書、2022年)があります。本書の中で石田氏は、「人それぞれ」という個人化が進んだ社会において、近隣や勤め先、親戚などの「余計なおせっかい」がなくなり、人が自由を満喫できるようになった反面、対人関係でトラブルになってもそれを修復するシステムが失われたために、若者の中で「友人であっても気を遣って、なかなか深い話ができない」人が年々増加して、結果的に「つながり」が不安定になっていると指摘しています。そして、この「不安定なつながり」を何とかしようとして、気遣いや「感謝」「嬉しい」といったポジティブな感情表現があるしっかりとした「コミュニケーション」を大切にするけれども、結果的には「ふれあい回避」になり、孤独感が高まっている様子を様々なデータから考察しています。
こうした状況を大きな流れの中で考えると、私たちはこの100年ほど、「いかに家族や共同体(村社会など)から解放されて自由になるか」を求めて生きてきたと言えます。故郷から離れて都会に移り住むこと。親の干渉を受けずに結婚相手を決めること。そして家ではそれぞれの部屋を確保して、干渉しすぎないで生活すること。さらにテレビや電話に代表される通信機器は、共有せずに個々人が所有して使うことなど。望むと望まないにかかわらず、私たちは「個別化」の急速な流れに乗っています。
そして家族そのものも、大家族から核家族へ、そして単身家庭の増加へと至ります。その流れの中で食事も、大家族が一室で同時に食べる形から、家族はいてもバラバラな食事に、一人暮らしの人は当然ながら「個食」になりました。このような個別化によって、私たちは自由や効率性などを手に入れてきたことは間違いないでしょう。
けれども、この個別化が「孤独化」をもたらし、さらに個食というスタイルは、少なくとも子どもたちには悪い影響を与えることがわかっています。
心理療法も「個」を重んじるものから「温かさ」と「つながり」を重んじるものに
このような流れを受けて、現代心理療法は「内省を通じて個を確立する」というものから「温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復を大切にする」というものへと変化しつつあります。
内省を通じて個を確立するためには、カウンセラーからの余分なアドバイスや肯定は要りませんし、距離もやや遠めがいいということが分かります。けれども温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復をするならば、カウンセラーのできるだけ誠意のあるアドバイスや肯定、近い心理的距離からの介入が必要となってくるわけです。
これは、フロイトもユングも(おそらく森田療法の森田正馬や、内観療法の吉本伊信も)大家族の中で日々暮らしていたことを考えても想像できるところです。そして、ユングが晩年は石ノ塔にこもって一人で生活していたということも、時代の先取りともあるいは、東洋的ともいえるかもしれません。この点に関しては、近い機会にまた別のブログで書いてみたいと思います。
子育てから効率性を排除する
プロカウンセラーとしての私は、時としてこの効率化とコスパ重視の社会に背を向けて、「効率性を排除しましょう」とアドバイスせざるを得ないことがあります。
それは思春期の子どもが、反抗的な態度で非行傾向を示して、夜はなかなか家に帰ってこず、繁華街の路上で長時間を過ごしているといった行動が明らかになったときです。この子たちの言動を細かく見聞きすると、明らかに親の愛情不足を訴えていて、そこから来る孤独感を何とかしようとして非行化していることがわかるのです。
そういうとき、私は親御さんに「できるだけ手間をかけましょう。干渉したりコントロールするのではなく、手間暇をかけるのです」「もし学校のことや勉強のこと、お金のことやその他のことで『どうするのが正解か』迷ったら、『手間暇のかかる方』を選んでください。送り迎えでも、食事でも、塾選びでも何でもかまいません。それが今、愛情を伝える唯一の方法です」と伝えます。
晩ご飯をどうするか迷ったときには、たとえ子どもがコンビニ食を希望しても、わざわざ手作りのご飯を作る方がいいのです。
このアドバイスを親御さんが実践していくと、子どもの非行や外泊はだんだんと減っていきます。もちろん、過干渉で問題が生じていると思われる親御さんには「もうこの年齢なので手放しましょう」(本書の別の章参照)というアドバイスするのですが。
今後も、この個別化の流れはとどめることは難しいかもしれません。けれども、そのような流れの中で、私たちはいかに「孤立と孤独」を避けるシステムや社会を作っていけるのかが問われていると言えるでしょう。
ただし、これ以上子育てに手間をかけろなんて言うと、さらに少子化は進んでしまうかもしれません。その意味では「塾や勉強に手間をかけるのではなく、大人も子どもと一緒に遊ぶ時間を増やしましょう」という提言をしたいと思っています。
以上
2025年
5月
05日
月
私たち現代人は「着ぐるみ」的な生き方を強いられていると言えます。
「着ぐるみ的な生き方」とは、現代の若者に代表される傾向として、「ソフトで人当たりのいい」、「平和主義者」として世の中から逸脱せず、「個性的」と言われるような悪目立ちはせず、「いい人」としての生き方を強いられている生き方です。
それはまるでゆるキャラの着ぐるみを着ているような状態で、本当の自分とは別の姿です。そしてその着ぐるみの中はじつはとても暑かったり、暗かったりで、孤独でネガティブになりやすい状態です。着ぐるみはしゃべることを許されず、中でひっそりとつぶやく言葉は、驚くほどネガティブだったりするけれど、それを誰にも言えないので、SNSなどでこっそりつぶやくしかないのです。
そして、この着ぐるみはいろいろと身に着けているものは多いのに(というかだからこそ)、案外不安定で余裕がありません。着ぐるみ同士でうっかり近づきすぎて、ハグしたり支えあおうとしたりすると共倒れにもなりかねません。なので、少し離れたところから両手を精一杯振るしかないのです。つまり、あまり「心から共感」したり「コミット」したりするのは、とても危険なことなのです。そして「みんな人それぞれだし・・・」と思っているのです。このことがさらに着ぐるみさんたちの孤独を深めているのかもしれません。また、この着ぐるみの中で誰にも見えない「傷」を抱えて、それがずっと癒されないままになって痛み続けていることも多いのです。
カウンセラーとしての私は、このような現代人が着させられている(着るしかない)着ぐるみを、まずは着ぐるみそのものとして理解して支援し、さらにその中に入っているのはどのような人なのかを推測しながら、共感的に支援するという営みを続けています。
世の中では実際に近年、着ぐるみやゆるキャラが全国的にとても人気を博していますが、私自身はいつも「中の人」のことが気になってしまいます。とりあえずその場では人気者だったり喜ばれていますが、それはあくまでも「着ぐるみ」が喜ばれているだけです。そして、そのことは着ぐるみを着ている当人が一番強く感じていることなのです。
この「中の人」は、自分でどんな着ぐるみ(時にゆるキャラ)を着ているかはわかっていても、中の人として本当は何を感じているのか、何に苦しんでいるのか、そしてなぜこのような状態になっているのかは、よくわかっていない場合が多いのです。なので、カウンセラーとしては、ご本人の言葉と振る舞いをたよりに、ご本人も気づいていなかった「中の人」を理解して、できるだけ無理なくその人らしさが生かせる形で支援しようとしています。
こういったいわば「できるだけ温かくて共感的な理解」こそが「カウンセラーの分析術」だとも言えます。なぜならそのような「温かくて共感的な分析」こそが、実際の支援としても有効だからなのです。つまり、「温かくて共感的な分析」を通じて、上記の「着ぐるみ」が、だんだんと薄くなって、被り物だけでも外せたり、全身がせいぜい透過性のいい(ゴアテックスの)レインスーツくらいになっていけるのです。
2025年
1月
03日
金
大学が冬休み中ですので、久しぶりにブログを書きます。
今回は、書評です。
まず、一読しての感想は「自由な人の書いた自由な本だ!」でした。
そしてサブタイトルに「新人間学」とあるように、徹底して「人間的」だということです。
クライエントとの面接室外での交流、セラピストの驚くような自己開示等々。
時には増井先生ご所有のヨットにもクライエントを乗せ、バイジーたちはバリ島の増井先生の別荘で過ごした思い出を語る。
バイジーたちは毎回の増井邸でのSVの際、妻の直子さんによる送迎とお茶とお菓子のもてなしを(おそらく)必ず受け、帰りの直子さん運転の車の中では、様々な話題が弾む。。。
これらの記述を読み、まず思い出したのが1980年代頃の日本の心理臨床シーンである。
当時、大学院生だった私(評者)は第一線のセラピストたちの集まる懇親会で、先生方が「いやー我が家に(Clの)男の子を預かるのは、家に娘がいるとちょっと心配やなー」等々と語り合っていたのを聞き、「はー、そういうもんなんだな。。。」と多少の違和感とともに受け止めていた。
その席では国分康孝先生(1930年生まれ)、東山紘久先生(1942年生まれ)が特に強く同意しておられたのを記憶している。またその場にはおられなかったが河合隼雄先生(1928年生まれ)は、その名著「カウンセリングの実際問題」に不登校の少年を自宅にしばらく預かっていたことがあると書かれている。かように河合先生の世代とそれに続く先達たちは、クライエントとの枠外での接触について積極的だった。
この本の著者の増井氏は河合先生より20歳近く年下(1945年生まれ)ではあるが、その伝統をしっかりと受け継いでおられるように思う。思えば増井氏よりも7歳年上(1938年生まれ)の評者の最初の師匠、小川捷之先生も若い時、クライエントの男の子とアパートの隣同士で暮らして、毎朝ランニング等をしていたと語っていた。(その男子は、その後、小川先生のいる横浜国立大学の学生となり、ゼミ生となっていた)
さらにその3歳年上の村瀬嘉代子先生(1935年生まれ)は、クライエントを自宅の夕食に呼ぶことがしばしばあったと論文にも書かれている。
以上のように、1980年代までは当然のように行われていた「Clとの枠外での交流」は、次第に影を潜めて、少なくとも公の場では語られなくなった。
その意味で、増井氏の本書は「古き伝統」をしっかりと残してくれている貴重な資料とも言える。
それにしても、である。
今の時代に改めてこのような記述を読むと、セラピーの構造に関しては、ある程度の柔軟性を持った方がよいと考えて実践している私(評者)から見ても、「大丈夫なのだろうか?」と思わざるを得ない。
現在の私は、クライエントと面接室外で会うことはないし、バイジーさんたちとも学会や研修会以外ではほとんど接触しない。
ましてやヨットも別荘も持たないので、招きようもない。
自宅でのホームパーティも学部学生以外には呼ばない。
(やはり日本は貧しくなっていっているのかもしれない・・・。)
今の私は「枠外の」関係なしで、いかに人間的に触れ合い、自由な関係を持てるかを模索しているつもりである。
けれども、インターネットが普及し、SNSが盛んとなり、カウンセリグオフィスではそのホームページにセラピストの情報を載せるのが必須となり、さらにはセラピストの名前を検索すれば、様々な情報が入る現代となって、この問題は別の形で熟考に値するようになっても来ている。
クライエントの方々は、あらかじめ種々の方法でセラピスト情報を手にすることができ、それがいる種の安全性を確保することにもつながる反面、セラピーの経過中でのそれらの情報は「雑音」ともなって、クライエントを苦しめることにもつながる。
本書にはそのようなデジタルツールにおける交流や一方的な曝露については書かれていないが、「枠外でクライエントと接触して、関係性が危うくなることはないのだろうか?」という疑問を持ちながら読み進めたところ、P59に以下のような記述が1回だけされていた。
「本書で提案する方法の適応性は各種の神経症レベルまでで、ボーダーラインのケースや統合失調症には別のアプローチを考えています」と。
たしかに、その範囲に限定すれば、増井氏の臨床的提案はある程度の妥当性があるだろう。
けれども、評者をはじめ臨床心理を専門とする読者が一番読みたいのは、その例外をどのように見極め、どのようにマネージするかという点ではないだろうか。
さらには、神経症レベルともボーダーラインレベルとも言えるトラウマ関連障害をもつクライエントさんに、どう人間的に触れ合うかを学びたいと思っているのではないだろうか。
そのような問わず語りはさておいて、第4章に述べられている以下のような15の原則は、とても示唆深い。
1.治療者が一人の人間に返ることー治療者が面接の場で「自分」に立ち返ること
2.患者さんを肯定的に見ることができる基本的な考え方ー症状能力について
3.治療場面構造の調整(評者注:自由で柔らかな治療構造)
4.面接初期に確認した方が良い要件(評者注:先入見にとらわれない初回面接で「よくなることのイメージの点検」や「趣味や時を忘れるようなことや物の確認」
5.分かりやすく説明する
6.やりたいこと見つけー治療学は休養学です
7.イメージで聴くこと
8.良くなっているところを顕微鏡で見るように拡大して見る
9.手のつけやすいところから手をつける
10. 性格を変えようとせず、環境を変えてみるー架け橋としての治療者
11. 問題を容れ物に入れてどこかに置いておくこと、距離を置いて自分を眺めること
12. 自殺予防
13. 理論を信じず、その場の自分の体験を信じよう
14. 直感を信じること
15. ドタキャンあり
これらは、著者の名人芸的な事例の数々とともに紹介されている。すべて賛成できるものであり、評者も自分なりに実践しているもの(のつもり)である。
そして、ここには著者の師匠格である神田橋先生の影響が色濃く認められる。
評者自身も20代の終わりから30代の前半にかけて、神田橋氏先生の事例検討セミナーに毎月参加して、それまでの理論重視の教えからずいぶんと解放された気がした経験がある。
けれども、やはり先に述べたような面接室外を含む自由な関りを、現実適応力は高いけれどもボーダーライン的な要素を持つクライエントやトラウマに苦しみながらも、現実はしっかりと保って生きているクライエントにも持つのか等々、疑問は尽きない。
上記の1~15の原則については、本書の後半でのバイジーさんたちの記述が、増井氏の新人間学とされる臨床的な姿勢について、その具体的なコツをかなり補足してくれていて、伝わりやすいものになっている。
言い方を変えれば、増井氏の(現代日本においては)自由過ぎる姿勢を、もう少し現代風に解題してくれているとも言える。
なかでも浅野みどり氏の論考は、セラピストの自己開示やノンバーバルな部分の大切さ、そして何より枠外でのクライエントとの接触について、「非性的な多重関係」として丁寧に論じられている。そして、クライエントとの「個人的な関係」について、抑制のきいた文章で慎重に論じられている点で、増井氏の論考を補足して余りあるとすら言える。
本書に見られる、増井氏の論述とバイジーさんたちの論述の自由度の違いとも言える温度差、そして筆者と評者との姿勢の違いは一言で言ってしまえば、「時代の違い」から来るものが多いと言えるだろう。
けれども、「時代が違うから」と一言で済ますのではなく、その中から引き継ぐべきものと変えていくべきものをしっかり弁別する必要がある。
枠外での交流は控えるにしても、いかにClと人間的な交流を保ち続けるか、そしてそれでありながら、その限界をもわきまえて「出来ることと出来ないこと」のバランス、理想主義と現実主義のバランス、専門性と人間性(職業的関係と人間的関係)のバランス等々、種々のバランスを最適に保つかが問われているのだと、あらためて意識させられる良書であった。
以上
2024年
8月
20日
火
第12章 統合的心理療法が最も役立つ複雑性PTSDの治療―トラウマのメガネと統合的技法が最大限生かされる時
1.はじめに
この章では、統合的心理療法の応用編として、トラウマインフォームドケアの考えに基づく複雑性PTSDの統合的治療について、解説します。
近年、トラウマインフォームドケアと、複雑性PTSDの治療が注目されてきています。
このトラウマインフォームドケア(TIC)とは、支援者たちがトラウマに関する知識や対応を身につけ、対象者の人たちに「トラウマがあるかもしれない」という観点をもって対応する支援の枠組みです。このTICという考え方は、2000年代以降、北米を中心に広がりを見せ、近年日本においても、医療、福祉、司法、教育の領域にも適応されるようになってきています(大阪教育大学,2023)。
この考え方は「トラウマのメガネ」とも呼ばれていて、「この人(子ども)の、一見理不尽な言動や、過剰な反応の裏にはトラウマがあるのかもしれないという目で見てみる」ということの意義が唱えられています。「色眼鏡で見る」と言えば「物事を歪んだ(偏った)見方から見る」という否定的な意味で使われますが、この「トラウマのメガネ」は、これをかけて初めて問題の本質が見え、正しい対応が見えてくるという意味で、大切な発想となっています。
このような考え方が出てきた背景の一つには、1990年代後半から行われるようになった小児期逆境体験(Adverse Child Experiences: ACE)研究の蓄積があります。これらの研究で、関係者が考える以上に多くの人が虐待や家族機能不全といった逆境体験をもっているだけではなく、さらにその後の逆境体験を重ねれば重ねるほど行動面、心理面、健康面のリスクが高まることが明らかにされました。逆境体験がすべてトラウマになるとは限りませんが、トラウマを理解して対応していくことの必要性が認識されるようになりました(大阪教育大学,2023)。
また複雑性PTSD(Complex PTSD:以下CPTSD)は、ハーマン(Herman,1992)によって提唱されて以来、診断概念としては正式に認められないままに今世紀に至っていましたが、ICD-11(世界保健機構国際疾病分類第11版)により、2022年にWHOにおいて2019年採択2022年発効という形で正式に認められました。これはこれまで米国精神医学会の診断基準DSM-5でははっきりと定義されなかった長期反復性のトラウマのサバイバーに関して、複雑性PTED(CPTSD)が、公式診断とされた画期的な出来事と言っていいでしょう。
振り返ってみれば、私たち心理職は、すでに長い間「トラウマ」や「虐待」そして「機能不全家族」などの概念には親しんできたものの、それらに対して系統的で体系的なアセスメントやセラピーの訓練は受けてきていませんでした。けれども、今思うと「あのケースもそうだった」と強く思わされる事例が多く、これは「発達障害」が初めて本格的に紹介された頃の感覚に近いものがあります。
2.複雑性PTSD(ⅭPTSD)とは
ⅭPTSDは、ハーマンによって1992年に提唱されたもので、定義としては以下のようになります。「極度に脅威的ないしは恐怖となる性質の出来事で、最も多くは、逃れることが困難ないしは不可能で、長期間あるいは繰り返された出来事に曝露したあとに生じる障害」(World Health Organization,2018)。そして、このような出来事の例として、拷問、奴隷、虐殺、長期的な家庭内暴力、繰り返される子ども時代の性的もしくは身体的虐待などがあげられています。
そして以下のような症状を伴っているとされました。
①再体験症状:re-experiencing;再体験
鮮明な侵入的記憶で、フラッシュバックや悪夢の形による、トラウマ的な出来事が今起きているように感じる再体験
②回避症状:avoidance of traumatic reminders;回避
出来事に関する思考や記憶の回避、あるいは出来事を想起させるような活動、状況、人物の回避
③脅威の感覚(過度の警戒心):persistent sense of current threat that is manifested by exaggerated startle and hypervigilance;過覚醒
今も脅威が高まっているような持続的で、過度な警戒心ないしは不意の物音などに対する過剰な驚愕反応
④感情制御困難:affective dysregulation;感情の調整不全
情動反応性亢進(気持ちが傷つきやすいなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および陽性の感情の体験困難
⑤否定的自己概念:negative self-concept;否定的な自己概念
自己の矮小感、敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広範な恥、自責の感覚
⑥対人関係の障害:disturbances in relationships;関係性の障害
他者に親近感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ
以上のうち①~③はPTSD(心的外傷性ストレス後症候群)と同じです。そして④~⑥は自己組織化の障害と呼ばれるものです。この自己組織化の障害とは、一言で言えば「自分を保っていることがとても難しい」状態だと言えます。
けれども臨床的には境界性パーソナリティ障害(BPD)との区別が難しいともされています。BPDは上記④~⑥の自己組織化の障害に加えて、「見捨てられを防ぐための極端なしがみつき」「理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係」「とても不安定な自己感覚・自己イメージ」が特徴とされます。また、自殺企図や自殺行為がBPDでは高く(約50%)、CPTSDではPTSDと同様に15%前後とされています。
表10-1.境界性パーソナリティ障害(BPD)とCPTSDとの鑑別(飛鳥井,2021をもとに筆者が作成)
自己組織化の障害(DSO) |
BPDとCPTSD |
主な違い |
自己概念の障害 |
BPD |
アップダウンする不安定な自己感覚 |
CPTSD |
常に否定的な自己感覚を反映 |
|
対人関係の障害
|
BPD |
急に変化しやすい対人交流パターン(ex.理想化とこきおろし) |
CPTSD |
対人関係の持続的回避傾向(親密な関係を避けてしまう) |
|
その他 |
BPD |
操作性、衝動性、見捨てられ不安、自殺企図や自傷行為の反復などの特徴 |
CPTSD |
自殺企図や自傷行為が出現することもあるが、病態の中心ではない。 トラウマ特異的なPTSD症状の存在がある。(ex.様々な身体症状や自律神経の不調)
|
また、岡野(2021)は、CPTSDの治療の際には、従来の精神分析的な治療を、以下のように変更する必要があるとしている。
表10-2.CPTSD治療のための精神分析治療の変更点(岡野,2021をもとに筆者が作成)
主な変更項目 |
内容 |
①治療関係の安全性と癒しの役割
|
治療場面が傷つき体験とならないよう、治療構造の「柔構造」的なあり方が必要 |
②トラウマ体験に対する(加害者側に立つと誤解されない)真の中立性 |
必要に応じてThの態度表明や感情表現をすることが真の中立性を保つうえで重要 |
③愛着トラウマという視点
|
治療者は過去のトラウマの想起やその治療的な扱いを優先的な治療目標とする姿勢から離れる。まずは安全な治療関係を形成することを第一目標とすべき |
④解離の概念の重視
|
解離・転換症状を扱うことを回避せず、症状や主張の背後の意味を読み、受け取っていく |
⑤関係性や逆転移の視点の重視
|
治療者側の救済願望により、治療関係が新たなストレス体験とならないよう、来談者への気持ちに常に適度なブレーキを踏み続けるような治療関係が望ましい |
⑥倫理原則の遵守 |
トラウマ体験により治療者に対しても加害的イメージを投影する可能性が高いため、最大の配慮を払う |
これらは、世界的な趨勢でもあり、主な現代心理療法や20世紀末から21世紀にかけて生まれた新しい心理療法は、全てこの傾向を備えているとも言えます。また、統合的心理療法もこの方向性にあることは疑いようがなく、上記の姿勢に「複数の異なった治療理論や治療技法を駆使する」を加えれば、そのまま統合的心理療法になると言っても過言ではないでしょう。
また、これまでの筆者の経験からも、とくにCPTSDのClには、単一技法はあまり効果的ではなく、「柔構造」の中で、ThがClの味方であるという「態度表明」や「感情表現」を通じて、決して冷たい中立性ではなく、加害者に怒りも感じる道義的な人間としての安心・安全感を持ってもらう必要があります。そしてまずはセルフケアやストレスコーピングの具体策について、時に心理教育もしながら、さらに症状を乗り越えていくためのワークを導入する必要もあります。時には家族に会う必要もあり、場合によっては家族や加害者とその関係者へのメールなどを作成するサポートも必要と考えます。
以下に、いくつかの事例とともに、このようなCPTSDへの統合的心理療法のあり方を検討していきたいと思います。
(以下、省略)表10-4参照
2025年
7月
05日
土
真摯な本である。内容も構成も書きぶりも。
そして、なによりも行間から、著者自身を含めた本書に登場する在宅医たちの日々の臨床姿勢の真摯さがあふれ出てくるようである。
そして、通読して本書のタイトルでもある「関わりつづける」という言葉が、評者の私(福島)の専門である臨床心理学で言う「そこに居つづける」という言葉に限りなく近く、そしてより正確に響きつづけている気がした。
さらに、「訪問する」ことの大変さと尊さと。
私自身、若い頃に何例か長期的な訪問カウンセリングを担当したり、修士論文やその後の研究でも大学院の隣の研究室の仲間たちと宗教学のフィールドワークをしていた関係で、「訪問」することの心身への負担を十分に思い知っており、それを専門として数十年も続ける在宅医の真摯さには「かなわない」と、日頃思っているからでもある。
本書は著者自身も在宅医であるが、自身の実践には直接には全く言及せずに、26名の現役在宅医にインタビューした結果とその考察を基本にしている。
「あとがき」によれば、著者は大学時代に所属していたヨット部の大会で海難事故に遭い、数時間にわたって身一つで漂流し、たまたま運良く助かった経験もあって「自分ごととして死を意識」するようになったとともに「死に接近しすぎた経験は自分と世界の距離を感じることにもつながった」とのことである。
この経験による世界の感じ方二つが、おそらく本書にも滲みわたっている真摯さと客観性とを生んでいると思うのは、深読みしすぎであろうか?
その後筆者は地域医療に力を入れる病院で研修医生活を送り、さらに西伊豆の小さな漁村での診療、そして後期研修では緩和ケアや沖縄の離島での診療支援などを経て、並行して上智大学の実践宗教学研究科博士課程に進学し修了して、文学博士となっている。
本書はその博士論文を大幅に加筆・修正したものらしい。
その後、著者は現在は都内の在宅診療のクリニックの院長を務める傍ら、上智大学グリーフケア研究所の研究員、東京慈恵医科大学非常勤講師なども務めておられる。
本書の1~3章においては、「医師とは何か」から始まり、医療の歴史と「なぜ在宅医の死生観」に注目したのかがていねいに書かれている。それらは単なる医療の歴史ではなく、「いのち」や「死生観」、そして「ケアする専門家」というキーワードを中心にして、広く「前近代」から「近代社会」が成立するとともに「病院の世紀」が始まり、救急期医療としての古典的在宅医療は衰退していったとする。
そしてさらに、著者の豊富な社会学的な学識を生かして、ウルリッヒ・ベックやアンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュなどの後期近代論の中でも、そこにポストモダンとレイトモダンという二つの層によって「死」のあり様が変化して行ったとするウォルターの議論を使いながら1970年代以降の日本の死と社会や医療のかかわりについて考察している。
上記のような「死」の変化は、端的に言えば、「死の私化」や「死の個人化」とも言われる現象であり、個人レベルで死にゆくプロセスを自己決定し、自分らしい死に方をとることが望ましいと考えられるようになるプロセスであるということである。
翻って、評者(福島)の専門である臨床心理学を顧みた場合、古代の呪術や近世までの宗教から心理療法の分離独立、ジャネ・P、シャルコーやフロイト、ユングによる深層心理学的心理療法の発見とその発展、軍隊と学校の近代化に伴う知能検査に代表される心理学的測定法の発展の歴史を整理することはできても、行動療法と認知療法の出現以降に関しては、それぞれの学派の伝統が独自に発展し続けていて、近代から現代という大きな歴史の中に位置づけて統合的に語ることがほとんどできていないことに改めて忸怩たる思いを抱いた。
著者は本書では全く触れられていないが、内科医学的知識、薬理学的知識など専門医としての知識と思考力は当然ながら備えておられるはずでありながらも、上記のような社会学的な学識を十分に我が物にしている点で、すでに「知の巨人」となりつつある様子がうかがわれる。現代の「ケア」を本気で語るには、このような理系・文系の枠にとらわれない知の巨人たることが必須なのかもしれないと痛感させられた。
さらにこの博識ぶりは、柳田国男と折口信夫に代表される日本の死生観にも触れ、折口の「まれびと」論による「近代人の孤独」を重視している点も、かび臭い書庫(失礼!)にとどまらない実践的な論となっている。
このブログは極めて私的な「私設カウンセリングオフィス」のブログなので、この際遠慮なく評者の自己開示もさせていただこう。学部時代は文学部日本文学科にいて、柳田民俗学の正当な流れをくむ教授や、近代日本文学研究の大家たちの授業を聴きながら、「それで今生きてる人間はどうなん?」という疑問をぬぐい切れず、大学院から臨床心理学に転向した。そんな私としては、折口民俗学が現代人の孤独感や死生観につながっているとは思わなかったし、誰も教えてくれなかった。ましてや当時うっすらと感じていた柳田民俗学への違和感(他の学生や先生方は、崇拝していたのに)は、「僕の頭が悪いんだ」としか感じられていなかった。
ついでながらさらに言えば、漱石や太宰の作中人物やご本人の生き方には、あまり共感できなかったが、土居健郎の「甘え」理論が登場するまでは、私の中では「日本文学科に居ながら、漱石と太宰に違和感を持ち続ける、勉強不足な僕」でしかなかった。(当時の僕には、あの自決事件とは別に三島由紀夫の文章の方が、潔くてとりあえず論理性があって好感が持てたし、森鴎外のエリス事件からの逃げっぷりにはあきれてはいたが、鴎外の文章や論争は好きだった)
挙句の果てにさまよい続けて、親鸞聖人(「歎異抄」ではなく、本物の「教行信証」の方)を卒論のテーマに選んだ21歳の頃の僕だった。
ものすごく脱線してしまいました。。。
さて、本書のメインディッシュはもちろん、4章以降の26名の医師へのインタビューとその分析・考察である。
インタビューに先立って著者は、その倫理的配慮の中で、著者自身の立場を明らかにし、「医師が医師について考察すること」のメリットと限界についても明らかにしている。そして、それについての可能な限りの配慮もされている点が、冒頭述べた「真摯な本」である一つであるし、それがかなり成功していると言っていいだろう。
そして具体的には「終末期における入院への迷い」「終末期における点滴の可否」「ACP(厚労省の命名では「人生会議」)における、意思決定モデルの危うさ」などを通じて、在宅医がご本人や家族と一緒に迷い、時に医学的合理性を少し脇においても、害の生じないレベルで点滴を実施したり、迷いやブレに付き添うという姿勢を「ともに迷い、探求する実践」として、重要視している様子が描き出される。
ここで何よりも大切にされているのは「共同意思決定」であるが、それを表面的なものとせずに患者や家族の非言語のメッセージまでとらえて、「みんなの前では言えない」ような気持ちは一対一で聴き取ったり、経過とともにその決定が揺らいだりもするのを厭わないという、きめ細やかさの大切さまでをも含めて論じられている。
きわめて繊細であり、私の専門の臨床心理学においても、この共同意思決定という言葉はやっと市民権を得始めたばかりであって「どのようなカウンセリングをしていきたいか」に関しては、まだまだ繊細な意思決定プロセスを経ていない場合がほとんどであると改めて反省させられた。
さて、このようなどこまでも真摯な終末期在宅医療の実践に関して、「こんなに真摯に実践を積み重ねていて、バーンアウトしないのだろうか?」という疑問が湧いてくる。
実際に、終章で著者が触れているように、本書が「規範の提示」つまり達成すべきモデルの提示と受け止められたり、「このような医師はどうしたら養成できるのか」という質問をもらうことも少なくないという。この点に関しては、この書評の最後の部分で「方法論的課題」としても触れたいが、その前に評者としてとても納得のいく、本書のクライマックスというべき記述がある。
それは、第6章において繰り返し述べられている「めぐみのような相互承認」や「まるで恩寵のようにおとずれる感覚」についてである。
さらに少し長くなるが引用すると
*********
意思決定という文脈で言うならば、それは自律した個人の意思を合理的に調停して「決める」のではなく、それぞれが共同性や孤独を、そして受動性を引き受けつつ、ともにより良い道を探ってきた末に物事が「決まる」経験でもある。それは医療者も患者もそれぞれが唯一無二の道のりを懸命に歩んだうえでの必然ではあるが、目的でもなく結果でもなく、体感としては偶然や奇跡のように感じられるものである。(下線は評者による)(p265)
*********
在宅医たちは、患者や周囲の人々との関係の中に身を投じ、偶発性に身を任せながらもなんとか医学的な合理性から手を離さないために、さまざまな水準で自分を変え、時には自分の孤独に向き合い、苦悩や生活史も含めて振り返りながら関係の中に足場をつくり、そこにとどまろうとする。いのちの危機にかかわりながら他者を理解しようとすることで自己を超えた世界を自覚し、そのことで死生観を深め、いのちの尊さを自覚する。そしてそのことが「死者を忘れない」姿勢、そして死後もなおその人とのかかわりから学んだことを反芻し、次の患者に生かしていこうとする姿勢へとつながってゆく。これは、患者のいのちに向き合い、その語りを聞く、すなわち患者からの呼びかけに対して応答しつづけるという形で示される、今までとは異なる形で表れている責任の感覚である。(p277-278)
*********
本書のこのクライマックスを読めば、もう「バーンアウトは?」などの心配は雲散霧消する。
何を隠そう評者も若い頃から「特異体質」などと呼ばれ、夜遅くや土日にも臨床をやっていた身としては、とてもよくわかるのだ。
この恩寵がたまに得られれば疲れは吹き飛び、患者以外の人ともこれを感じられるという般化が生じるのだ!
(評者は、もちろん子育て中は夜間の臨床は制限し、土日のどちらかは家事育児に専念した。けれどもそれが空けた今となっては、また再び大学勤務の傍ら土日と平日朝晩の臨床で、この「恩寵」に浴しているが、他のスタッフにそれを求めてはいない。)
この恩寵は著者の言うように「孤独と他者性を自覚して実存的な問いを深めてゆく」(p259)「偶発的に「人と人としての」つながりの感覚を感じられる経験」(p262)というものであるので、まれにしか訪れない。だからこそ、中毒性(正しくは依存性)のあるもので、やめることができない。
このような恩寵を求めてしまう人間は、どんな人間なのかという問いはある。例えば、その昔、河合隼雄は心理臨床家についてではあるが「こんな大変な仕事をする人間は、きっと前世で極悪人やったんやろうと思う」と発言されていた。
本書の著者はどうかわからないが、評者の私は、おそらくそうだったに違いない。
けれども、このような限定的な「恩寵」を味わう感覚こそ現代のスピリチュアリティの中核だとも思う。あるいは、少し控えめに言って「現代のヒューマンサービスに携わる人間の専門的なスピリチュアリティ」と言っていいだろう。
そして、この恩寵こそが「お客様は神様」と言われてしまう現代日本で、ヒューマンサービスやケアの仕事にかかわりながらも、自己疎外や学習性無力感、あるいはその反対の拝金主義や神秘主義に陥らずに、実践を積み重ねていく唯一の原動力となるのだと思う。
以前評者(福島,2017)は「(カウンセラーの)「セルフケア」と「自己点検」は,基本的には「すべて臨床活動(訓練も含む)のなかでされるべき」と書いたりしてきた。つまりカウンセラーの臨床的なストレスは、十分な内省を経たのちに「クライエントと共有する」ことで、ストレスではなく前向きな取り組みとして解消されるとした。(ブログ「カウンセラーのセルフケアと自己点検」も参照)
このような「セルフケア」と「自己点検」という観点は、言葉そのものは世俗的なものではあるが、その本質はやはり「恩寵」をどう感じられるかだと思うのだ。
もっと大きく言えば、このような恩寵の感じ方には、オウム真理教事件から東日本大震災を経て、コロナ禍でダメ押しされた感のある「怪しいスピリチュアリスト」とはまったく違う、本当の意味でのスピリチュアリティの萌芽があるのではないだろうか?
以前のブログ「私の薦める一冊-大田俊寛著『オウム真理教の精神史』」(2011年、春秋社)においても紹介したが、著者の大田が
「オウム真理教のようなカルトは、たまたま出現したのでも日本だからこそ拡大成長したのでもない。この問題はまさに近代というシステムが「死」の問題に対して答えを出せていないがゆえのことであり、その意味でこれからも同様のカルトが出現する可能性がある」としている記述を思い出す(下線は引用者による)。
この「死」の問題に、評者の私は「心理臨床の中でどう向き合ったらいいか」をいつも自問自答しながらいた。しかし、本書を読んで、ここに大きなヒントがあると痛感した。そして、やはり近いところにいるという実感も強めた。
現代のスピリチュアリティは、このようなコツコツと地味な実践を通じてしか立ち現れないのだ。
最後に、無理を承知で、あるいは評者の不勉強の可能性を顧みずに、方法論的な課題を記しておきたい。
それは、サンプリングの問題である。
このようなテーマのインタビュー調査は、心理学においてもサンプリングは「縁故法」となることが多いのは同様である。しかしながら心理学のインタビュー調査であれば、理論的サンプリングとして「対極例」を探すのが通例となる。人類学や民俗学でそのようなサンプリングが行われるのは見聞きしたことはないが、可能ならばそうすることで、より現状や実態に近い描写が可能になると思う。
つまりこの調査では、「在宅医としてバーンアウトもしくは他科に転向した例」や「関わりつづけない医療」を実践していると思われる例などとなろうか。
そうでない場合は、このような研究は、臨床心理学では「エキスパート研究」として、理想の実践者が、どのような変遷をたどって現在のような実践に至ったかを、詳しく考察するものとなる。
歴史の浅い分野や論争中の実践においては、対極例を平等に描き出す研究よりも、この「エキスパート研究」の方が、実践的な指針と課題を浮き彫りにするという意味でも価値が高い場合もある。
この辺りの位置づけや記述があるとさらに良かったと思う。
○文献
福島哲夫(2017) カウンセラーのセルフケアと自己点検をどう進めるか?臨床心理学第 17 巻第 1 号
大田俊寛(2011)『オウム真理教の精神史』春秋社
2025年
6月
09日
月
(本年6月末に久々の単著「プロカウンセラーの人を見る技術」が出版されます。ここでは、その中の1節をにさらに加筆したものを紹介いたします。以下のリンクから立ち読み・予約可能です
内閣府による令和4年の調査によれば、孤独感が「しばしばある・常にある」と回答した人の割合は4.9%、「時々ある」が15.8%、「たまにある」が19.6%でした。これらを合計すると40%を超えている計算になります。そして令和5年の調査と比較しても有意に増加していることが確かめられています。
この調査はインターネットによる2万人を対象としたものですが、本当に孤立している人はこのような調査に答えないかもしれないという意味では、実際はさらに高い割合になっているかもしれません。
さらに別の研究として、岩村暢子氏の『ぼっちな食卓』(中央公論新社、2023年)が注目に値します。氏の20年にわたる追跡調査によると、子どもが小学校・中学校という早い時期から家族そろっての食事にこだわらず、各自が好きなときに好きなものを食べるというスタイルになっていた家庭ほど、10年後、20年後に引きこもりや不登校、無断外泊が多くなる確率が高いとしています。
また、こうした家庭の特徴として「貧困」や「親の多忙さ」「複雑な家庭事情」などは認められず、その多くが「リクエスト食」と言われる子どもが小さいときからリクエストに応じて好きなものだけ食べさせた家庭や、「セルフ食」と言われる自分でコンビニで買わせたり、冷蔵庫の中の好きなものを「レンジでチン」して食べさせた家庭だったとしています。
このように、一見「自由と主体性」を早くから保証した家庭生活の方が、子育て環境としてはかえって望ましいものではなかったのです。
これは一体どういうことでしょうか。
さらにもう一つ興味深い指摘として、石田光規氏の『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマ―新書、2022年)があります。本書の中で石田氏は、「人それぞれ」という個人化が進んだ社会において、近隣や勤め先、親戚などの「余計なおせっかい」がなくなり、人が自由を満喫できるようになった反面、対人関係でトラブルになってもそれを修復するシステムが失われたために、若者の中で「友人であっても気を遣って、なかなか深い話ができない」人が年々増加して、結果的に「つながり」が不安定になっていると指摘しています。そして、この「不安定なつながり」を何とかしようとして、気遣いや「感謝」「嬉しい」といったポジティブな感情表現があるしっかりとした「コミュニケーション」を大切にするけれども、結果的には「ふれあい回避」になり、孤独感が高まっている様子を様々なデータから考察しています。
こうした状況を大きな流れの中で考えると、私たちはこの100年ほど、「いかに家族や共同体(村社会など)から解放されて自由になるか」を求めて生きてきたと言えます。故郷から離れて都会に移り住むこと。親の干渉を受けずに結婚相手を決めること。そして家ではそれぞれの部屋を確保して、干渉しすぎないで生活すること。さらにテレビや電話に代表される通信機器は、共有せずに個々人が所有して使うことなど。望むと望まないにかかわらず、私たちは「個別化」の急速な流れに乗っています。
そして家族そのものも、大家族から核家族へ、そして単身家庭の増加へと至ります。その流れの中で食事も、大家族が一室で同時に食べる形から、家族はいてもバラバラな食事に、一人暮らしの人は当然ながら「個食」になりました。このような個別化によって、私たちは自由や効率性などを手に入れてきたことは間違いないでしょう。
けれども、この個別化が「孤独化」をもたらし、さらに個食というスタイルは、少なくとも子どもたちには悪い影響を与えることがわかっています。
心理療法も「個」を重んじるものから「温かさ」と「つながり」を重んじるものに
このような流れを受けて、現代心理療法は「内省を通じて個を確立する」というものから「温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復を大切にする」というものへと変化しつつあります。
内省を通じて個を確立するためには、カウンセラーからの余分なアドバイスや肯定は要りませんし、距離もやや遠めがいいということが分かります。けれども温かさを大切にして、つながりやアタッチメントの修復をするならば、カウンセラーのできるだけ誠意のあるアドバイスや肯定、近い心理的距離からの介入が必要となってくるわけです。
これは、フロイトもユングも(おそらく森田療法の森田正馬や、内観療法の吉本伊信も)大家族の中で日々暮らしていたことを考えても想像できるところです。そして、ユングが晩年は石ノ塔にこもって一人で生活していたということも、時代の先取りともあるいは、東洋的ともいえるかもしれません。この点に関しては、近い機会にまた別のブログで書いてみたいと思います。
子育てから効率性を排除する
プロカウンセラーとしての私は、時としてこの効率化とコスパ重視の社会に背を向けて、「効率性を排除しましょう」とアドバイスせざるを得ないことがあります。
それは思春期の子どもが、反抗的な態度で非行傾向を示して、夜はなかなか家に帰ってこず、繁華街の路上で長時間を過ごしているといった行動が明らかになったときです。この子たちの言動を細かく見聞きすると、明らかに親の愛情不足を訴えていて、そこから来る孤独感を何とかしようとして非行化していることがわかるのです。
そういうとき、私は親御さんに「できるだけ手間をかけましょう。干渉したりコントロールするのではなく、手間暇をかけるのです」「もし学校のことや勉強のこと、お金のことやその他のことで『どうするのが正解か』迷ったら、『手間暇のかかる方』を選んでください。送り迎えでも、食事でも、塾選びでも何でもかまいません。それが今、愛情を伝える唯一の方法です」と伝えます。
晩ご飯をどうするか迷ったときには、たとえ子どもがコンビニ食を希望しても、わざわざ手作りのご飯を作る方がいいのです。
このアドバイスを親御さんが実践していくと、子どもの非行や外泊はだんだんと減っていきます。もちろん、過干渉で問題が生じていると思われる親御さんには「もうこの年齢なので手放しましょう」(本書の別の章参照)というアドバイスするのですが。
今後も、この個別化の流れはとどめることは難しいかもしれません。けれども、そのような流れの中で、私たちはいかに「孤立と孤独」を避けるシステムや社会を作っていけるのかが問われていると言えるでしょう。
ただし、これ以上子育てに手間をかけろなんて言うと、さらに少子化は進んでしまうかもしれません。その意味では「塾や勉強に手間をかけるのではなく、大人も子どもと一緒に遊ぶ時間を増やしましょう」という提言をしたいと思っています。
以上
2025年
5月
05日
月
私たち現代人は「着ぐるみ」的な生き方を強いられていると言えます。
「着ぐるみ的な生き方」とは、現代の若者に代表される傾向として、「ソフトで人当たりのいい」、「平和主義者」として世の中から逸脱せず、「個性的」と言われるような悪目立ちはせず、「いい人」としての生き方を強いられている生き方です。
それはまるでゆるキャラの着ぐるみを着ているような状態で、本当の自分とは別の姿です。そしてその着ぐるみの中はじつはとても暑かったり、暗かったりで、孤独でネガティブになりやすい状態です。着ぐるみはしゃべることを許されず、中でひっそりとつぶやく言葉は、驚くほどネガティブだったりするけれど、それを誰にも言えないので、SNSなどでこっそりつぶやくしかないのです。
そして、この着ぐるみはいろいろと身に着けているものは多いのに(というかだからこそ)、案外不安定で余裕がありません。着ぐるみ同士でうっかり近づきすぎて、ハグしたり支えあおうとしたりすると共倒れにもなりかねません。なので、少し離れたところから両手を精一杯振るしかないのです。つまり、あまり「心から共感」したり「コミット」したりするのは、とても危険なことなのです。そして「みんな人それぞれだし・・・」と思っているのです。このことがさらに着ぐるみさんたちの孤独を深めているのかもしれません。また、この着ぐるみの中で誰にも見えない「傷」を抱えて、それがずっと癒されないままになって痛み続けていることも多いのです。
カウンセラーとしての私は、このような現代人が着させられている(着るしかない)着ぐるみを、まずは着ぐるみそのものとして理解して支援し、さらにその中に入っているのはどのような人なのかを推測しながら、共感的に支援するという営みを続けています。
世の中では実際に近年、着ぐるみやゆるキャラが全国的にとても人気を博していますが、私自身はいつも「中の人」のことが気になってしまいます。とりあえずその場では人気者だったり喜ばれていますが、それはあくまでも「着ぐるみ」が喜ばれているだけです。そして、そのことは着ぐるみを着ている当人が一番強く感じていることなのです。
この「中の人」は、自分でどんな着ぐるみ(時にゆるキャラ)を着ているかはわかっていても、中の人として本当は何を感じているのか、何に苦しんでいるのか、そしてなぜこのような状態になっているのかは、よくわかっていない場合が多いのです。なので、カウンセラーとしては、ご本人の言葉と振る舞いをたよりに、ご本人も気づいていなかった「中の人」を理解して、できるだけ無理なくその人らしさが生かせる形で支援しようとしています。
こういったいわば「できるだけ温かくて共感的な理解」こそが「カウンセラーの分析術」だとも言えます。なぜならそのような「温かくて共感的な分析」こそが、実際の支援としても有効だからなのです。つまり、「温かくて共感的な分析」を通じて、上記の「着ぐるみ」が、だんだんと薄くなって、被り物だけでも外せたり、全身がせいぜい透過性のいい(ゴアテックスの)レインスーツくらいになっていけるのです。
2025年
1月
03日
金
大学が冬休み中ですので、久しぶりにブログを書きます。
今回は、書評です。
まず、一読しての感想は「自由な人の書いた自由な本だ!」でした。
そしてサブタイトルに「新人間学」とあるように、徹底して「人間的」だということです。
クライエントとの面接室外での交流、セラピストの驚くような自己開示等々。
時には増井先生ご所有のヨットにもクライエントを乗せ、バイジーたちはバリ島の増井先生の別荘で過ごした思い出を語る。
バイジーたちは毎回の増井邸でのSVの際、妻の直子さんによる送迎とお茶とお菓子のもてなしを(おそらく)必ず受け、帰りの直子さん運転の車の中では、様々な話題が弾む。。。
これらの記述を読み、まず思い出したのが1980年代頃の日本の心理臨床シーンである。
当時、大学院生だった私(評者)は第一線のセラピストたちの集まる懇親会で、先生方が「いやー我が家に(Clの)男の子を預かるのは、家に娘がいるとちょっと心配やなー」等々と語り合っていたのを聞き、「はー、そういうもんなんだな。。。」と多少の違和感とともに受け止めていた。
その席では国分康孝先生(1930年生まれ)、東山紘久先生(1942年生まれ)が特に強く同意しておられたのを記憶している。またその場にはおられなかったが河合隼雄先生(1928年生まれ)は、その名著「カウンセリングの実際問題」に不登校の少年を自宅にしばらく預かっていたことがあると書かれている。かように河合先生の世代とそれに続く先達たちは、クライエントとの枠外での接触について積極的だった。
この本の著者の増井氏は河合先生より20歳近く年下(1945年生まれ)ではあるが、その伝統をしっかりと受け継いでおられるように思う。思えば増井氏よりも7歳年上(1938年生まれ)の評者の最初の師匠、小川捷之先生も若い時、クライエントの男の子とアパートの隣同士で暮らして、毎朝ランニング等をしていたと語っていた。(その男子は、その後、小川先生のいる横浜国立大学の学生となり、ゼミ生となっていた)
さらにその3歳年上の村瀬嘉代子先生(1935年生まれ)は、クライエントを自宅の夕食に呼ぶことがしばしばあったと論文にも書かれている。
以上のように、1980年代までは当然のように行われていた「Clとの枠外での交流」は、次第に影を潜めて、少なくとも公の場では語られなくなった。
その意味で、増井氏の本書は「古き伝統」をしっかりと残してくれている貴重な資料とも言える。
それにしても、である。
今の時代に改めてこのような記述を読むと、セラピーの構造に関しては、ある程度の柔軟性を持った方がよいと考えて実践している私(評者)から見ても、「大丈夫なのだろうか?」と思わざるを得ない。
現在の私は、クライエントと面接室外で会うことはないし、バイジーさんたちとも学会や研修会以外ではほとんど接触しない。
ましてやヨットも別荘も持たないので、招きようもない。
自宅でのホームパーティも学部学生以外には呼ばない。
(やはり日本は貧しくなっていっているのかもしれない・・・。)
今の私は「枠外の」関係なしで、いかに人間的に触れ合い、自由な関係を持てるかを模索しているつもりである。
けれども、インターネットが普及し、SNSが盛んとなり、カウンセリグオフィスではそのホームページにセラピストの情報を載せるのが必須となり、さらにはセラピストの名前を検索すれば、様々な情報が入る現代となって、この問題は別の形で熟考に値するようになっても来ている。
クライエントの方々は、あらかじめ種々の方法でセラピスト情報を手にすることができ、それがいる種の安全性を確保することにもつながる反面、セラピーの経過中でのそれらの情報は「雑音」ともなって、クライエントを苦しめることにもつながる。
本書にはそのようなデジタルツールにおける交流や一方的な曝露については書かれていないが、「枠外でクライエントと接触して、関係性が危うくなることはないのだろうか?」という疑問を持ちながら読み進めたところ、P59に以下のような記述が1回だけされていた。
「本書で提案する方法の適応性は各種の神経症レベルまでで、ボーダーラインのケースや統合失調症には別のアプローチを考えています」と。
たしかに、その範囲に限定すれば、増井氏の臨床的提案はある程度の妥当性があるだろう。
けれども、評者をはじめ臨床心理を専門とする読者が一番読みたいのは、その例外をどのように見極め、どのようにマネージするかという点ではないだろうか。
さらには、神経症レベルともボーダーラインレベルとも言えるトラウマ関連障害をもつクライエントさんに、どう人間的に触れ合うかを学びたいと思っているのではないだろうか。
そのような問わず語りはさておいて、第4章に述べられている以下のような15の原則は、とても示唆深い。
1.治療者が一人の人間に返ることー治療者が面接の場で「自分」に立ち返ること
2.患者さんを肯定的に見ることができる基本的な考え方ー症状能力について
3.治療場面構造の調整(評者注:自由で柔らかな治療構造)
4.面接初期に確認した方が良い要件(評者注:先入見にとらわれない初回面接で「よくなることのイメージの点検」や「趣味や時を忘れるようなことや物の確認」
5.分かりやすく説明する
6.やりたいこと見つけー治療学は休養学です
7.イメージで聴くこと
8.良くなっているところを顕微鏡で見るように拡大して見る
9.手のつけやすいところから手をつける
10. 性格を変えようとせず、環境を変えてみるー架け橋としての治療者
11. 問題を容れ物に入れてどこかに置いておくこと、距離を置いて自分を眺めること
12. 自殺予防
13. 理論を信じず、その場の自分の体験を信じよう
14. 直感を信じること
15. ドタキャンあり
これらは、著者の名人芸的な事例の数々とともに紹介されている。すべて賛成できるものであり、評者も自分なりに実践しているもの(のつもり)である。
そして、ここには著者の師匠格である神田橋先生の影響が色濃く認められる。
評者自身も20代の終わりから30代の前半にかけて、神田橋氏先生の事例検討セミナーに毎月参加して、それまでの理論重視の教えからずいぶんと解放された気がした経験がある。
けれども、やはり先に述べたような面接室外を含む自由な関りを、現実適応力は高いけれどもボーダーライン的な要素を持つクライエントやトラウマに苦しみながらも、現実はしっかりと保って生きているクライエントにも持つのか等々、疑問は尽きない。
上記の1~15の原則については、本書の後半でのバイジーさんたちの記述が、増井氏の新人間学とされる臨床的な姿勢について、その具体的なコツをかなり補足してくれていて、伝わりやすいものになっている。
言い方を変えれば、増井氏の(現代日本においては)自由過ぎる姿勢を、もう少し現代風に解題してくれているとも言える。
なかでも浅野みどり氏の論考は、セラピストの自己開示やノンバーバルな部分の大切さ、そして何より枠外でのクライエントとの接触について、「非性的な多重関係」として丁寧に論じられている。そして、クライエントとの「個人的な関係」について、抑制のきいた文章で慎重に論じられている点で、増井氏の論考を補足して余りあるとすら言える。
本書に見られる、増井氏の論述とバイジーさんたちの論述の自由度の違いとも言える温度差、そして筆者と評者との姿勢の違いは一言で言ってしまえば、「時代の違い」から来るものが多いと言えるだろう。
けれども、「時代が違うから」と一言で済ますのではなく、その中から引き継ぐべきものと変えていくべきものをしっかり弁別する必要がある。
枠外での交流は控えるにしても、いかにClと人間的な交流を保ち続けるか、そしてそれでありながら、その限界をもわきまえて「出来ることと出来ないこと」のバランス、理想主義と現実主義のバランス、専門性と人間性(職業的関係と人間的関係)のバランス等々、種々のバランスを最適に保つかが問われているのだと、あらためて意識させられる良書であった。
以上
2024年
8月
20日
火
第12章 統合的心理療法が最も役立つ複雑性PTSDの治療―トラウマのメガネと統合的技法が最大限生かされる時
1.はじめに
この章では、統合的心理療法の応用編として、トラウマインフォームドケアの考えに基づく複雑性PTSDの統合的治療について、解説します。
近年、トラウマインフォームドケアと、複雑性PTSDの治療が注目されてきています。
このトラウマインフォームドケア(TIC)とは、支援者たちがトラウマに関する知識や対応を身につけ、対象者の人たちに「トラウマがあるかもしれない」という観点をもって対応する支援の枠組みです。このTICという考え方は、2000年代以降、北米を中心に広がりを見せ、近年日本においても、医療、福祉、司法、教育の領域にも適応されるようになってきています(大阪教育大学,2023)。
この考え方は「トラウマのメガネ」とも呼ばれていて、「この人(子ども)の、一見理不尽な言動や、過剰な反応の裏にはトラウマがあるのかもしれないという目で見てみる」ということの意義が唱えられています。「色眼鏡で見る」と言えば「物事を歪んだ(偏った)見方から見る」という否定的な意味で使われますが、この「トラウマのメガネ」は、これをかけて初めて問題の本質が見え、正しい対応が見えてくるという意味で、大切な発想となっています。
このような考え方が出てきた背景の一つには、1990年代後半から行われるようになった小児期逆境体験(Adverse Child Experiences: ACE)研究の蓄積があります。これらの研究で、関係者が考える以上に多くの人が虐待や家族機能不全といった逆境体験をもっているだけではなく、さらにその後の逆境体験を重ねれば重ねるほど行動面、心理面、健康面のリスクが高まることが明らかにされました。逆境体験がすべてトラウマになるとは限りませんが、トラウマを理解して対応していくことの必要性が認識されるようになりました(大阪教育大学,2023)。
また複雑性PTSD(Complex PTSD:以下CPTSD)は、ハーマン(Herman,1992)によって提唱されて以来、診断概念としては正式に認められないままに今世紀に至っていましたが、ICD-11(世界保健機構国際疾病分類第11版)により、2022年にWHOにおいて2019年採択2022年発効という形で正式に認められました。これはこれまで米国精神医学会の診断基準DSM-5でははっきりと定義されなかった長期反復性のトラウマのサバイバーに関して、複雑性PTED(CPTSD)が、公式診断とされた画期的な出来事と言っていいでしょう。
振り返ってみれば、私たち心理職は、すでに長い間「トラウマ」や「虐待」そして「機能不全家族」などの概念には親しんできたものの、それらに対して系統的で体系的なアセスメントやセラピーの訓練は受けてきていませんでした。けれども、今思うと「あのケースもそうだった」と強く思わされる事例が多く、これは「発達障害」が初めて本格的に紹介された頃の感覚に近いものがあります。
2.複雑性PTSD(ⅭPTSD)とは
ⅭPTSDは、ハーマンによって1992年に提唱されたもので、定義としては以下のようになります。「極度に脅威的ないしは恐怖となる性質の出来事で、最も多くは、逃れることが困難ないしは不可能で、長期間あるいは繰り返された出来事に曝露したあとに生じる障害」(World Health Organization,2018)。そして、このような出来事の例として、拷問、奴隷、虐殺、長期的な家庭内暴力、繰り返される子ども時代の性的もしくは身体的虐待などがあげられています。
そして以下のような症状を伴っているとされました。
①再体験症状:re-experiencing;再体験
鮮明な侵入的記憶で、フラッシュバックや悪夢の形による、トラウマ的な出来事が今起きているように感じる再体験
②回避症状:avoidance of traumatic reminders;回避
出来事に関する思考や記憶の回避、あるいは出来事を想起させるような活動、状況、人物の回避
③脅威の感覚(過度の警戒心):persistent sense of current threat that is manifested by exaggerated startle and hypervigilance;過覚醒
今も脅威が高まっているような持続的で、過度な警戒心ないしは不意の物音などに対する過剰な驚愕反応
④感情制御困難:affective dysregulation;感情の調整不全
情動反応性亢進(気持ちが傷つきやすいなど)、暴力的爆発、無謀なまたは自己破壊的行動、ストレス下での遷延性解離状態、感情麻痺および陽性の感情の体験困難
⑤否定的自己概念:negative self-concept;否定的な自己概念
自己の矮小感、敗北感、無価値観などの持続的な思い込みで、外傷的出来事に関連する深く広範な恥、自責の感覚
⑥対人関係の障害:disturbances in relationships;関係性の障害
他者に親近感を持つことの困難、対人関係や社会参加の回避や関心の乏しさ
以上のうち①~③はPTSD(心的外傷性ストレス後症候群)と同じです。そして④~⑥は自己組織化の障害と呼ばれるものです。この自己組織化の障害とは、一言で言えば「自分を保っていることがとても難しい」状態だと言えます。
けれども臨床的には境界性パーソナリティ障害(BPD)との区別が難しいともされています。BPDは上記④~⑥の自己組織化の障害に加えて、「見捨てられを防ぐための極端なしがみつき」「理想化と脱価値化の間を揺れ動く不安定で激しい対人関係」「とても不安定な自己感覚・自己イメージ」が特徴とされます。また、自殺企図や自殺行為がBPDでは高く(約50%)、CPTSDではPTSDと同様に15%前後とされています。
表10-1.境界性パーソナリティ障害(BPD)とCPTSDとの鑑別(飛鳥井,2021をもとに筆者が作成)
自己組織化の障害(DSO) |
BPDとCPTSD |
主な違い |
自己概念の障害 |
BPD |
アップダウンする不安定な自己感覚 |
CPTSD |
常に否定的な自己感覚を反映 |
|
対人関係の障害
|
BPD |
急に変化しやすい対人交流パターン(ex.理想化とこきおろし) |
CPTSD |
対人関係の持続的回避傾向(親密な関係を避けてしまう) |
|
その他 |
BPD |
操作性、衝動性、見捨てられ不安、自殺企図や自傷行為の反復などの特徴 |
CPTSD |
自殺企図や自傷行為が出現することもあるが、病態の中心ではない。 トラウマ特異的なPTSD症状の存在がある。(ex.様々な身体症状や自律神経の不調)
|
また、岡野(2021)は、CPTSDの治療の際には、従来の精神分析的な治療を、以下のように変更する必要があるとしている。
表10-2.CPTSD治療のための精神分析治療の変更点(岡野,2021をもとに筆者が作成)
主な変更項目 |
内容 |
①治療関係の安全性と癒しの役割
|
治療場面が傷つき体験とならないよう、治療構造の「柔構造」的なあり方が必要 |
②トラウマ体験に対する(加害者側に立つと誤解されない)真の中立性 |
必要に応じてThの態度表明や感情表現をすることが真の中立性を保つうえで重要 |
③愛着トラウマという視点
|
治療者は過去のトラウマの想起やその治療的な扱いを優先的な治療目標とする姿勢から離れる。まずは安全な治療関係を形成することを第一目標とすべき |
④解離の概念の重視
|
解離・転換症状を扱うことを回避せず、症状や主張の背後の意味を読み、受け取っていく |
⑤関係性や逆転移の視点の重視
|
治療者側の救済願望により、治療関係が新たなストレス体験とならないよう、来談者への気持ちに常に適度なブレーキを踏み続けるような治療関係が望ましい |
⑥倫理原則の遵守 |
トラウマ体験により治療者に対しても加害的イメージを投影する可能性が高いため、最大の配慮を払う |
これらは、世界的な趨勢でもあり、主な現代心理療法や20世紀末から21世紀にかけて生まれた新しい心理療法は、全てこの傾向を備えているとも言えます。また、統合的心理療法もこの方向性にあることは疑いようがなく、上記の姿勢に「複数の異なった治療理論や治療技法を駆使する」を加えれば、そのまま統合的心理療法になると言っても過言ではないでしょう。
また、これまでの筆者の経験からも、とくにCPTSDのClには、単一技法はあまり効果的ではなく、「柔構造」の中で、ThがClの味方であるという「態度表明」や「感情表現」を通じて、決して冷たい中立性ではなく、加害者に怒りも感じる道義的な人間としての安心・安全感を持ってもらう必要があります。そしてまずはセルフケアやストレスコーピングの具体策について、時に心理教育もしながら、さらに症状を乗り越えていくためのワークを導入する必要もあります。時には家族に会う必要もあり、場合によっては家族や加害者とその関係者へのメールなどを作成するサポートも必要と考えます。
以下に、いくつかの事例とともに、このようなCPTSDへの統合的心理療法のあり方を検討していきたいと思います。
(以下、省略)表10-4参照