「青年期精神療法」第13巻第1号 p133-135.2017年 掲載を修正の上、再掲。
「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(永田カビ著:イースト・プレス,2016)
スタッフ:森山
1. はじめに
私たち臨床家はできるだけ患者やクライエントと心理的に近いところに在りたいと思う。そしてそのために、彼らの言葉や姿に想いを巡らせ、反芻し、想像しながら世界を共有することを試みる。仮説と検証を繰り返すために、私たちはささいなことでもあらゆるものを糧として自分の中に蓄積させておく必要があると思う。専門的な知識や技法を携えておくだけでは、彼らの内的世界の理解や共有に至らないのだという厳しさを、現場に出て目の当たりにしたからこその焦りもあった。何かヒントはないものかと、人間の内面を描写した文学作品に触れることがあるが、それらは時として私たち臨床家にとっては出口のない世界や、全く成長しない主人公が描かれることも多く、あるいは逆にリアリティに欠けるものも少なくなかった
しかしここにきて、SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の登場とその浸透力により状況は大きく変化した。匿名・実名かかわ
らず、その名の向こうには実存する人々の内なる世界が広がり、いつでもタイムリーにアクセスし合うことができるようになったのだ。本書との出会いもまさにSNSがもたらしてくれたものであった。
2. 本書について
本書は、著者が「親」と「親のごきげんを取りたい私」から“自分”を獲得するために試行錯誤し、七転八倒しながら走り続けてきた20代の約10年間にわたる過程をエッセイ漫画として自伝的に描いている。元々はpixiv(ピクシブ)というイラストの投稿・閲覧ができるコミュニケーションサービスにて発表されたが、SNSを通した口コミで大きな反響を呼び閲覧数が480万超えを記録したことが契機となって書籍化された。
3. レズ風俗、そして寂しさと自己表現
数え切れないコンテンツが生み出されている中で、本書がなぜこれだけ多くの読み手に繋がったのか。聞き慣れない「レズ(ビアン)風俗」という単語は、大衆の興味を惹くには十分インパクがあるかもしれない。しかし、それを上回って多くの人に読んでみたいという気持ちを引き起こした最大の要因は、著者が「風俗嬢が、女性相手に性的サ-ビスを提供する」という「レズ風俗」を利用するという選択に至った理由が「さびしすぎて」だったからなのではないかと私は考える。
往々にして人のさびしさは見えにくいものである。形状や質量というように可視化することができない。そしてさびしさの理由はその本人にすら分からないこともある。年齢や性別、環境や能力などを超えてさびしさが存在することは、我々は臨床の場において常々目撃していることであり、また何より自分自身を通してそれを知っているともいえる。私を含めこのタイトルに吸い寄せられた人々は、なぜさびしいのか?なぜ風俗だったのか?そしてさびしさは解消されたのか?その答えが知りたくて、頁をめくったのだろうと思う。
自己を適切に表現できるかどうか、またそれを受け取ってくれる相手が存在するかどうかによって、QOLは大きく左右される。相手に受け取ってもらうということは、即ち自己を承認されること、と言い換えることができるだろう。承認されることで、自尊感情や自己肯定感が育まれる。この過程に必要な存在として最初に対象となるのは親(家族)である。
今や一般に浸透しつつある“毒親”という言葉こそ使われていないが、本書に垣間見える親の言動は非共感的かつ否定的なものである。親(社会)の持つ価値観の枠から外れることを頑なに許されず、常に減点方式での評価にさらされ続ける「子」の物語は、臨床の場でも多く出逢う。そしてそれは年齢によらず、たとえ親と物理的距離が取れていても、また亡くなったとしても、「認められたい」という悲しみや怒り、それに伴う痛みは現在進行形のものとして深く心の根底に横たわり続けている。模索しながら傷つきながら、それが叶わず途方に暮れた結果として代替表現を行った場合、いわゆる自己破壊的行動や不適応的行動として露呈されていくことは少なくない。
4. ボロボロになることで免除され、もらえる居場所
著者もまた、リストカットや抜毛などを繰り返し、摂食障害やうつを患ってきた一人である。
彼女は本作の中で「ボロボロになっていく事はうれしかった。傷付くことで何かが免除され人が私を承認するハードルが下がり、居場所がもらえると思っていた」と語っている。さらに「親に認められたい。がんばらなくても許されたい」と願い続けたが、それが叶うことなく刻々と追い詰められていく様子を回顧しながら描いている。
同じような体験をしてきたクライエントの言葉に耳を傾ける中で、共通していると感じることがある。それは、彼らは何かとんでもなく過大な要求をしているわけではないということだ。たとえ「ボロボロ」が一見激しい様相であっても、その本質はごくささやかなものである。ささやかだからこそ、それが叶わぬことに周囲が思う以上に深く傷つき悲嘆しているのだ。その上で自分らしさや主体的な選択を勝ち得ることは、そう簡単ではない。ひずみをまとった居場所から、ありのままの自分が安心していられるところへと登るためには、エネルギーがいる。だからこそ私たち臨床家は、不可視の心の痛みである叫びを言語化する作業を共にしながら、クライエントに“寄り添って”いく必要があるのだと切に思う。
5. 自分から大切にされる
ところで作中「私、自分から全然大切にされてない」と、まるで雷に打たれたかのように衝撃を受ける場面があるのだが、これは非常に重要な気づきである。その気づきのきっかけとなったのが、漫画家・谷口菜津子の「人生山あり谷口」というエッセイ漫画の連載であった。そこで出逢った文章は、彼女にカウンセリングでいうところの、内省そして直面化を促す作用として働いていく。またこの他にも、近年母親との葛藤を描いた「母がしんどい」等のエッセイ漫画で話題となった田房永子のネット連載から、自分に気づきを与えてくれた文章を抜粋し紹介している。
これまでも、機能不全家族やそれにまつわるテーマについて言及した書物は多く世に出され、時に注目されてきた。しかしそれは、有識者や専門家による分析や解説であったり、あるいは当事者によるノンフィクション、ともすればドラマティックに描かれすぎた読み物であった。冒頭、本作がヒットを飛ばした理由について「さびしさ」というキーワードが大きく影響しているのではないかと述べたが、それとは別に本書の魅力として挙げておきたいのが、“エッセイ漫画”であるということだ。多方面で葛藤というものを抱き始める思春期、そして青年期の彼らが気軽にアクセスできるコンテンツのひとつとして、エッセイ漫画の存在は希望の一つになるといってもいいかもしれない。本作でも、著者の心象風景が論理的でありながらシンプルな言葉選びと、生き生きとした画力との絶妙な掛け合わせにより、読み手に確かな体感を届けている。
このようなエッセイ漫画というジャンルが確立されたことで読み手の層がより広くなり、そして届く“情報”が随分と増えたと私は認識している。実際に本書を読んだ人々の感想を辿ると「まるで自分のことを描いているよう」「言葉にできなかったものが表現されていてすっきりした」「考えるきっかけになった」というものが散見された。読むことで自らと照らし合わせ、不透明だった内界がラベリングされ、クリアになっていく体験ができれば、それは気づきとして大きな支えとなり、次に繋がる一歩となる。
一種のカタルシス効果をも含んだエッセイ漫画は臨床家にとって強者であり、負けたくないとすら思わせてくれるほどだ。またその一方でそのような本の存在が、臨床の場にはなかなか訪れるきっかけがなかった人々との架け橋となってくれるかもしれないという期待も多いに抱かせる。人々の内的世界への興味関心を絶やさず、臨床家として日々アップデートを続けていこうと改めて感じさせてくれる一冊である。(以上)